日蓮宗発行の英字新聞に、御開山上人の記事が掲載されました

掲載日:2019年9月3日(火)

日蓮宗発行の英字新聞『Nichiren Shu News』No.233 2019年8月1日号に、御開山上人の記事が掲載されましたのでご紹介いたします。

掲載紙面の画像をクリックすると、PDF版で表示できます。
また、日本語訳の文章を以下に掲載いたします。

日蓮宗信仰の偉人達(7)

日本福祉大学創始者・鈴木修学上人

小向宣生(鎌倉・妙法寺)

 鈴木修学上人(1902-1962)は愛知県に生まれました。両親は菓子問屋を営んでいました。鈴木氏は家業を継ぎ、パンの製造販売ではかなりの成功を収めました。しかしながら、決して心の満足を感じることなく、“何のために自分は生まれたのか。自分は満たされないまま死んでいくのだろうか。お金で買うことのできない幸せはないものだろうか?”と繰り返し自問する日々を送ります。

 鈴木氏が23歳の時、叔父から法華経信仰に基に福祉事業を展開する仏教感化救済会の創始者・杉山辰子を紹介されます。鈴木氏が悩みを打ち明けると、辰子はこう答えました。

 「満ち足りた一生を送りたいなら、法華経の教えを通して幸せの種をまく必要があります。一番良いのは親のない子どもを育て、子ども達を幸せにすることです。私は重い荷物を運んでいますが、あなたにも手伝っていただきたい。いかがですか」

 辰子の依頼は真剣そのもので、鈴木氏はこれこそが大きな使命になると確信し、その申し出を受け入れることを決意しました。

 鈴木氏は農作業を通して罪を犯した17名の少年達を更生させる仕事を任せられました。また、孤児・虐待児・サーカスに売られた子ども・障がい児のための養護院の経営も引き受けました。子ども達と一緒になって農作業に精を出し、米や穀物を栽培しました。

 鈴木氏は決して子ども達を叱ることなく、むしろいつでも子ども達をほめまることに徹しました。

「親から捨てられ、または虐待を受けた子ども達は常におびえ、信頼関係が欠如しています。よいことをした時には子ども達をほめましょう。そうすれば子ども達も穏やかで素直な子になります。自分達をほめる人に対して子ども達は信頼を置くようになります」

 鈴木氏のこの信念は、釈迦が言う“生きとし生けるものをまさに私と同じようになることを欲す(如我等無異)”という法華経の教えに基づいています。

「この世に生まれた人はすべて仏さまの子です。法華経によれば、精神障がい者も含め、誰もが等しく成仏できるのです。そして誰もが本当の幸せを達成する権利があるのです。仏さまは悟りへの正しい道を私達に示し、仏性を開花させようとされるのです」

 どの子どもにも差別することなく接した鈴木氏は、すべての子から尊敬され、信用されたのです。

 1945年に第二次世界大戦が終戦を迎えた頃、日本には12万人を越える戦災孤児がいましたが、孤児院ではそのうちの2万人しか保護できませんでした。

 鈴木氏は親を失った多くの子ども達を保護しましたが、10万を越える孤児たちは放置されたままでした。この悲惨な状況を打開するため、鈴木氏は子ども達によりよい福祉を展開するために努力を惜しみませんでした。養護施設を作り、幼い子ども達の世話をし、子ども達の教育に尽力しました。

 1946年、鈴木氏は日蓮宗僧侶として得度。その4年後、鈴木上人は49歳で百日間の大荒行に入行しました。その後、第参行を達成しました。

「子ども達のために幸せの種をまく必要がある。そのためにもっと法華経を学びたい。それを実現するには日蓮宗僧侶になって仏道に邁進することが私にとって最善なのです。人々を善道に導くのが私の使命です。そのためには正しい教えを率先して実行することが大切です。子ども達のよいお手本になる必要があります。そのためには修養しなければなりません。荒行は私自身を磨くよい機会となりました」

 鈴木上人は福祉事業を続けながら、未来の社会福祉のためには人を育てることが必要になると確信し、社会福祉に従事する若者を教育する大学を設立することを決断しました。1957年、愛知県名古屋市に日本福祉大学という4年制の大学を設立しました。社会福祉に特化した専門大学です。以来、6万人を越える学生が大学を巣立ち、社会福祉の様々な仕事に就いています。

*写真1 愛知県の日本福祉大学の校舎
*写真2 自然災害被災者への寄付を募る日本福祉大学の学生達