福を植える

掲載日:2025年3月1日(土)

 皆さん、幸田露伴をご存知でしょうか。露伴は夏目漱石と並び称される明治の文豪です。亡くなった時に慶応義塾塾長だった小泉信三先生に「私達は百年に一人の頭脳を失った」と言わしめた人物です。露伴は小説家ですが、修養に関する本をいくつか書いています。その中でも一番有名なのが『努力論』です。

 この本は言い回しなどが古典のようにとてもむずかしいのですが、修養を志す者は精読する価値のある本です。

 今回はその『努力論』の中から「惜福・分福・植福」についてお話をします。

 露伴は「福や運を論ずるのはあまり高等なことではないように思われがちだが、多くの人達が一所懸命苦労したり努力したりするのは福を得るためであるから、福について考えておくのも悪くない」という前置きをした後、福を身につけるための三つの道について述べます。それが「惜福・分福・植福」です。

 まず「惜福」とは、“福を惜しむ”ということです。例えば、大金が手に入ると誰でも“運が良い”と喜びますが、大事なのはその後です。それを使い果たさず、正当なこと以外には無駄づかいをしないのが惜福です。日常でもそうです。給料をもらった時、必ずそこから一定額の貯金をする。それが惜福です。毎回使い果たしてしまっては、福はどこかへ行ってしまいます。

 ある会社の社長さんが、「同じ給料で始まった二人の社員の数十年後の違いに驚いた」と言っておられました。〝一方は家を建て、子どもを立派に教育している。もう一方は借家で、いつもお金に困っている〟というのです。この二人の違いは、貯金をしていたかどうかにあるようです。要するに惜福の違いということです。

 露伴は「誰しも七度訪れるという幸運を生かすためには何より惜福の工夫が大事だ」と言い、歴史上の人物を例に挙げて説明しています。「平家の総大将・平清盛、『平家物語』で旭将軍と呼ばれた木曽義仲、源平合戦最大の功労者・源義経、これらの人物は惜福の工夫が足りなかったために没落したのだ」と言います。

 また、「徳川家康は、豊臣秀吉よりも器量において一段も二段も劣っていたかもしれない。しかし惜福の工夫においては数段勝っていた。それによって徳川三百年の礎を築くことができた」と言います。事実、家康は古紙一枚も粗末にしないほどの倹約家でした。一方の秀吉は聚楽第を造営し、黄金の茶室を造って栄華を誇りましたが、惜福の工夫がなかったため、豊臣家は滅びてしまったというのです。

 次に「分福」ですが、分福とは字で書くが如く、“自分の福を自らがすべて使うのではなく、そのいくらかを他人に分ける心掛け”のことをいいます。分福と惜福の違いは、惜福が福を使い尽くさないことに重きを置いているのに対し、分福は、福を分ける相手が目に見えてはっきりしているのが特徴です。このことを露伴は「惜福は自己一身にかかることで、聊か消極的の傾があるが、分福は他人の身上にもかかることで、おのずから積極的の観がある」と述べています。また、人の上に立つ人物には必ず分福の心得があるとして、世界帝国をつくった古代マケドニアのアレキサンダー大王のことを例として挙げています。

 アレキサンダー大王がペルシャを倒し、皆で勝利の美酒を味わおうということになった時、兵士全員に行き渡るほどのワインがありませんでした。そこで大王は「このワインを全部川上から流せ」と命令しました。そして皆がコップを持って、大王とともに川の水を汲んで乾杯したというのです。露伴は「誰もワインでは酔えなかったであろう。しかし、兵士達は大王の恩愛に酔いしれたのである。また、このように部下を愛する人物に対しては、部下たるもの献身を誓わぬはずがなかろう」と言います。

 さらに、ここでも豊臣秀吉と徳川家康の話が出てきます。「日本において分福の心掛けが一番すぐれていたのは誰かというと、それは秀吉である」と露伴は言います。家康は惜福の工夫については実にすぐれた人物であったのですが、分福については今一つであったようです。実際、自分の部下に対してあまり多くの知行を与えませんでした。徳川恩顧の大名といっても、石高はせいぜい十五万石です。ところが秀吉は、実に気前良く何十万石という知行を与えたのです。それも加藤、福島、前田、蒲生といった、初めからの家臣だけではなく、途中から家臣になった者にも惜しげもなく福を分け与えたのです。少しでも手柄を立てれば何十万石と与えられるのですから、家臣たるもの秀吉のために命を懸けるのは当然です。露伴は「これが、秀吉が早々と天下を統一できた理由である」と言っています。この後露伴は、秀吉に愛された蒲生氏郷の伝記からおもしろいエピソードを紹介しています。

 ある時、大名達の集まりで、「秀吉に万一のことがあったら、次は誰が天下の主人になるだろうか」という話題になった時に、氏郷は「それは前田利家だ」と言いました。「前田以外では」と問われると「それは自分だ」と言いました。さらに「徳川殿はどうだ」と問われると、笑いながら「徳川のような、人に物をくれ惜しむものに何ができるものか」と言ったというのです。

 しかし、家康は天下を取りました。これは、家康が秀吉よりも健康で長生きをしたことが大きな理由であろうと思われます。何かの本で読んだのですが、家康は常に健康に気をつかっていたそうです。〝親からもらった身体を大事にした。惜しんだ〟ということだと思います。ここにも家康の惜福があったのではないでしょうか。

 最後に「植福」です。これは“福を植える”ということです。「自分のために福を植えることは大事であるが、後の人々、後の世のために福を植える。これが何よりも大事だ」と露伴は言います。

「福を持ちたいと願う人は多いが、実際に福を持つ人は少ない。福を得ても福を惜しむことを知る人は少ない。福を惜しむことを知っても、福を分けることを知る人は少ない。福を分けることを知っていても、福を植えることを知っている人はさらに少ないのである」

「福を得るためには福を植えるしかない。ところが実際には福を植えることを回りくどいと考え、遠回りであると考える人が多いのは残念でならない。植えられた福は、時々刻々成長して、休みなく伸びていくのだ。天運星移とともに進み、いつとはなく増大し、いつとはなく優れた結果を積み上げているのである。杉や松の大木は天を摩すが、その種子は2本の指先でつまめるぐらいの微小なものだ。植えられた微小な福は見上げるほど巨大に育つのである」

「今我々は、古代に比べ、原人に比べてはるかに大きな幸福を得ている。これはすべて祖先の植福の賜物である。祖先のお陰をこうむっている我々は、同じように植福して子孫に残してやらなければならない。文明というものは、すべて先人が福を植えてくれた結果なのである」

「植福」の「福」に関しては、これを「徳」と置きかえても良いと思います。

 最近『グッド・アンセスター(=よき祖先)』という本を読みました。この本には、「わたしたちは『よき祖先』になれるか」という副題がついています。まさに植福について書かれた本です。この本の中にわかりやすい植福の話として、植林の話がでてきます。言うまでもなく、木を植えるのは自分達のためではなく子孫のためです。一年、二年では結果が出ません。五十年、百年、二百年、時には三百年かかることもあります。

 顕著な例として日本の伊勢神宮の話が出ていました。伊勢神宮は、二十年ごとに式年遷宮を行います。今から千三百年程前の天武天皇が始められた儀式です。式年遷宮に使われる木材は樹齢二百年から三百年のヒノキです。ですから今、ヒノキを植えている人は二百年後、三百年後の式年遷宮のために植えているわけです。それを『グッド・アンセスター』の著者はとても評価しています。

 また徳川幕府の話もあります。安土桃山時代から江戸時代にかけて日本全国で城が造られ、江戸の町を造るために、大量の木材が使われました。その結果、日本各地が禿山だらけになったといいます。そして生態系が破壊され、海で魚が取れなくなってしまいました。昔から「豊かな森林は豊かな海を育む」と言われます。森林は河川を通じて海に栄養分や有機物を供給しているのです。それがなくなってしまったのです。また、木がなくなると洪水が起こります。さらに、天変地異によって飢饉が発生します。江戸時代には有名な三大飢饉以外にも何度か飢饉が起こりました。江戸幕府はそこで木を植えなければいけないことに気づき、全国の役所を通じて村人に報酬を支払い、毎年10万本の苗木を植えさせました。その結果、日本の国土の67パーセントが森林となり、緑の列島に戻ったのです。これが明治の中頃のことです。

 さらに、ケニア出身の女性で2004年にノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんの話もあります。マータイさんは来日した際「もったいない」という日本語を知って感銘を受け、国連女性地位委員会で演説した時には、出席者全員と「もったいない」を唱和したといいます。そして、「MOTTAINAI」を世界共通語として広めることを提唱しました。

 ある時期ケニアでは多くの森林監督官が不正を働き、森林を破壊していました。森林破壊は江戸時代の例でわかるようにさまざまな災害をもたらします。そこでマータイさんは、1977年に「グリーンベルト運動」という植林活動を始めました。最初は賛同する人も少なく、7本の木を植えることから始まったそうです。それが今では貧困に苦しむ女性を中心に延べ10万人が参加し、アフリカ全土に運動が広まり、5100万本の木が植えられ、アフリカが緑の大地に戻ったのです。

 マータイさんの国葬の時、「木を使わないで」という遺言に従って、特製の棺に納められ、ガスによって火葬されたそうです。

 最後に『グッド・アンセスター』の副題、「わたしたちは『よき祖先』になれるか」と発した人、ジョナス・ソーク氏についてです。ソーク氏はアメリカのウイルス学者です。この方は1955年に十年近くにわたり綿密な実験を重ねた結果、安全なポリオワクチンの開発に成功しました。ポリオは日本では小児麻痺として知られる病気です。世界各地で50万人を超える死者が出ていた当時、ワクチンは危機的状況を打開する突破口となりました。ソーク氏は時の人となり、瞬く間にミラクル・ワーカー(=奇跡の功績者)として世の中から称賛を受けました。

 しかし、本人は名声や富に一切関心を示さず、ワクチンの特許権を放棄しています。

「莫大な富が入るというのに、なぜワクチンの特許権を放棄したのか」という質問に、ソーク氏は答えています。

「太陽の光を浴びるのに特許はありません。私は子孫に太陽の光のように、このワクチンを与えたいのです」

 その結果、発展途上国を含めた、世界中の子ども達にこのポリオワクチンが行き届き、世界の約98パーセントの小児麻痺が消滅したのです。

〝我々が先人から多くの恩恵を受けているように、我々も未来世代に多くの恩恵を渡さなければならない〟というのがソーク氏の信念だったのです。

 私達一人ひとりが、ソーク氏のように「グッド・アンセスター」となる努力を惜しまなければ、きっと未来は輝かしいものとなるでしょう。