昨年12月に当山第二世顕修院日達上人の第十三回忌御報恩法要を厳修させていただきました。
昭和37年6月7日に御開山上人が御遷化され、日達上人は32歳の若さで、すべての役職を引き継がれました。法音寺住職、日本福祉大学理事長・学長、付属高校校長、昭徳会理事長、駒方保育園園長等です。その中でも大学の経営は非常に大変でした。
大学は開学当初から、経営が火の車のような状態でした。御開山上人が忘年会の席上、「大学の経営も火の車ですが、火の車というのは、回るのが不思議ですな」と冗談を言うほかないほど、本当に大変な状況でした。その理由は、予定していた国からの補助金がなかったからです。当時の日本は自衛隊の前身である警察予備隊を創設することになり、それに予算が割かれることで、当時の厚生省は大学(当時は短大)への補助金支給ができなくなってしまったのです。
また、御開山上人は優秀な先生を集めるために国立大学並みの給料を保証し、更に研究費も充分に出し、貧しい中にあっても志の高い学生に来てもらいたいと、学費を国立大学並みに低額にし、学生寮もつくられました。ですから支出は多く、収入は少ない状況で、非常に経営が厳しかったのです。そのような状況の中、日達上人が大学の理事長・学長を継がれた時、当時のお寺の総代さんから「御開山上人は『大学の経営が本当に大変だったら、外部の方にやってもらってもいい』とおっしゃっていましたよ」と言われたそうです。それに対して日達上人はニコっとして「なんとかなりますよ」と言われたそうです。
日達上人は法灯を継承された年に大荒行に入行されました。そこへ総代さん達が面会に来られて、「山首さま、今年はどうにか大学のことで銀行から借金をせずに済みました」と言われたそうです。日達上人が「それは良かった。経営が好転したのですか?」と聞かれると、「違います。御前さま(御開山上人)が亡くなられて、皆さまから香典を戴いて、それでどうにか銀行から借金をせずに済んだのです」ということでした。
その後、日達上人の不惜身命の精進と多くの皆さんの御助力によって借金は完済され、経営も順調に軌道に乗ったということです。
日達上人が御法話で、皆さん御存知の一休和尚の話をされたことがあります。
一休和尚の晩年に応仁の乱という京の都を焼き尽くす大乱が起こりました。これは十年も続き、一休和尚のいた大徳寺も焼け落ちてしまいました。応仁の乱の後、一休和尚やお弟子さん、信者さん達の尽力で大徳寺は復興したのですが、その後、一休和尚は「また応仁の乱のようなことがないとも限らない。その時のための心構えを書き置きしておくから、もしそういうことがあったら、この文庫を開けて読むように」とお弟子さん達に言い残して亡くなりました。
一休和尚が亡くなった後、お弟子さん達は書き置きを見たくて仕方がなかったため、別に何か起こったわけではないのですが、その書き置きを見てしまいました。そこには「なんとかなる」とだけ書いてあったということです。
その御法話を聞いた後、日達上人に「おもしろい話ですね」と申し上げると、日達上人は「本当だぞ」と言われました。それに対し、「あれは実話なのですか?」と聞き返しますと、「いや、違う。一休さんのことだから頓知話の類いだろう。しかし『なんとかなる』というのは本当だ。あきらめなければなんとかなるものだ」と言われました。その言葉の裏には大学経営の体験があったと思います。
パナソニックの創業者、松下幸之助さんが言われています。
「失敗の原因は、成功する前にあきらめてしまうことだ」
ホンダの創業者、本田宗一郎さんも言われています。「私は失敗したことがない。成功するまであきらめないからだ」
歴史上の人物で、あきらめることを知らなかった偉大な人物がいます。発明王トーマス・エジソンです。エジソンは、白熱電球のフィラメントを発明するまでに一万回失敗しています。紙、人間の髪の毛、近所のおじさんの髭など、思いあたるありとあらゆるものを使い、たどり着いたのが竹でした。最初は200時間位明かりが灯ったそうです。そこで、自分の部下達に世界中の竹を集めさせました。その中で日本の京都の竹が一番良くて、1200時間も明かりが灯り続けたそうです。そして京都の竹を輸入して白熱電球を売り出したのです。
余談ですが、今や掃除機の代名詞と言えば「ダイソン」です。これを発明したジェームズ・ダイソンさんもサイクロン式掃除機を完成させるまでに5126回失敗したそうです。ダイソンさんの尊敬する人物は本田宗一郎さんだそうです。
ある人がエジソンに「そんなに失敗して、もう止めた方がいいんじゃないか」と言うと、エジソンは「いや、失敗は発見であり、小さな成功なんだ。最後に大きな発見、大成功が待っているんだ」と答えました。この考え方はエジソンのお母さんの教育の賜なのです。
幼少期のエジソンは変わった子どもでした。小学校の先生が「1たす1は2です」というと、「先生、1たす1は1になることもあります」と粘土をもってきてペタッとくっつけて「この通り、1たす1は1になりました」とやったのです。先生は怒って「もう学校に来なくていい」と言ったそうです。するとエジソンは大喜びで家に帰って実験を繰り返し、お母さんが先生の代わりにエジソンを教育しました。ある時のことです。ガチョウの卵を巣から取って来てエジソンは自分で巣を作り、親鳥と同じように自分のお尻で温めましたが、当然孵化しません。通りがかった人達はバカにしましたが、お母さんは違っていました。「良かったね。あなたのお尻では孵化しないことがわかったのは大発見ね!」と言ったのです。エジソンはどんな失敗も一つの発見なんだとお母さんに教えられたのです。
日達上人に話を戻します。日達上人がニコッとして、「大丈夫ですよ。なんとかなりますよ」と信者さんに言われた時のあの感じが私は好きでした。皆さん、日達上人に言われると、本当に大丈夫だと感じ、なんとかなる気がされたと思いますし、そうなったのではないでしょうか。〝あの雰囲気は日達上人ならではのものだったな〟と、今、思います。
私が大学浪人をしていた頃のことです。日達上人は早稲田大学卒業で、私も早稲田大学を志望していました。当時「早稲田模試」という模擬試験があり、それを受けたところ、「人事を尽くして天命を待て」という結果でした。つまり、〝ほとんど可能性がないから、もう神頼みしかない〟ということです。日達上人にその結果を見せると、「大丈夫だ」と言われました。私が「大丈夫ですか?受かりますか?」と聞くと、「いやそうじゃない。受かっても落ちても人生に大した影響はないから大丈夫なんだ」と言われ、〝そんなものかな〟と思ったのを覚えています。日達上人らしい言葉です。その言葉で気が楽になったのか、合格することができました。
これも余談ですが、浪人時代に入江塾を主催しておられた入江伸さんの本を何冊も読みました。入江塾は超スパルタ式で生徒が半泣きで授業を受けている姿をテレビで見たことがあります。しかし、それに耐え抜いた生徒は、灘やラサールといった超一流校に受かるのです。タレントのラサール石井さんがある週刊誌に入江伸さんのことを書いていました。石井さんは入江塾の出身です。ラサール高校に受かった時、直接入江先生にお礼に行くと先客がありました。どうも漏れてくる声に元気がないのです。普通、受かった生徒は直接御礼を言いに来て、落ちた生徒は入江先生が怖いから電話で済ませてしまうのですが、その生徒は「先生にあんなに一生懸命教えてもらったのに、落ちてしまって申し訳ありませんでした」と直接謝りに来ていたのです。すると、あの鬼のように怖かった入江先生が言ったそうです。
「気にしなくていいぞ。受験なんて落ちたって大したことはないんだ。人生は甘くないとよく言うが、あれは嘘だ。実は大甘なんだ。やる気さえあれば、何度でもやり直せるんだ。受験に落ちたことなんか屁でもないぞ」
これを聞いて石井さんは、怖かった入江先生のことが大好きになったそうです。日達上人の「あきらめなければなんとかなる」に通ずる話だと思います。
この度、日達上人第十三回忌御報恩浄業として、御法話集『大白牛車』を発刊しました。副題が「堪忍読本」です。たくさんの堪忍のお話がおさめられています。冒頭、御開山上人の最期の御詠「腹立つな物を苦にせず感謝せよ天の恵みに福徳を増す」が示され、そして「このお歌は堪忍をしよう、我慢をしようということではありません。これは感謝をしようということを教えておられるのです。身の回りのすべてのことに感謝できるようになると、腹の立つようなことは一切なくなりますよ」と日達上人は解説しておられます。確かに感謝のできる人は自ずと堪忍もできると思います。私達が一番感謝しなければいけないことは、“命をいただいていること”だと思います。これほどありがたいことはほかにありません。
今から250年程前、イマヌエル・カントという大哲学者がドイツにいました。フランスのルネ・デカルトと並び称される人です。カントは生まれつき病弱で体の小さい人でした。脈拍がいつも120もあったそうです。絶えず動悸があり、喘息も患っていたので、いつも呼吸がゼーゼーとなり「苦しい。辛い」という言葉が口ぐせのようになっていました。両親や兄弟はそれを聞いて、どうにかしてやりたいと思うのですが、お父さんは貧しい馬具職人で、お医者さんにかからせることができませんでした。初めてお医者さんに診てもらったのが17歳の時でした。17歳なのにカントは身長が150センチしかありませんでした。胸が非常に薄く、とてもやせていました。カントがお医者さんにかかることができたのは、当時、貧しい人達のために巡回してくるお医者さんがいたからです。そのお医者さんはカントを診て言いました。
「これでは確かに苦しかろう。辛かろう。しかし残念だが今の医学では治すことはできない。しかし、君の心は病んではいないだろ。命があることに感謝して生きていきなさい。そして君が『苦しい。辛い』と言うと、君のお父さん(お母さんはすでに亡くなっていました)や兄弟はもっと辛くなる。だから、そのような言葉を我慢しなさい。逆に苦しい時ほど無理をしてでも笑顔で過ごしなさい」
17歳のカントは、その言葉を聞いてその通りだと素直に思ったのです。〝いつも自分が「苦しい。辛い」と言っていては、確かに周りの人は辛いだろう。これからはそういう言葉を口にするのはやめよう。笑顔で過ごそう。もう今日限り絶対に愚痴は言わない〟と誓ったのです。
それからカントは〝自分はいつまで生きられるかわからない。だから、とにかく人の何倍も勉強しなければ〟と思い、努力の結果、名門のケーニヒスベルク大学に入学しました。大学を出て教授になり、ついには総長になり、大哲学者と言われる人になるわけです。
カントは散歩が日課でした。散歩の時間が非常に正確で、カントが歩いているのを見て、近所の人が時計の針を直したというぐらい正確に歩いたそうです。これには〝規則正しい生活をして健康を管理しよう〟という目的があったそうです。
また余談ですが、若い頃に読んだ渡部昇一先生の『知的生活の方法』の中にカントの話が出ていました。カントは一日一食、昼食のみだったそうです。毎日大勢の客と一緒にワインを飲みながら、長い時には5時間ぐらい会食をしたそうです。カントはとても社交的で、また座談の名手でした。そのおもしろい話を聞くために実業家や貴婦人達が我を争って訪問したのです。カントの方はいろいろな人からさまざまな話を聞き、自己の思想の栄養としていました。会食後は毎日一時間散歩をし、思索に耽り、ときに重要な思いつきを手帳に書きつけたということです。
カントは大事なことを証明しました。当時、人間は一つの機械のように思われていました。要するに、心は横に置いておいて、人間は生命のある機械のようなものだと思われていたのです。それに対してカントは言いました。
「それは違う。人間は心だ。いつ死ぬかわからないような子どもが70歳を過ぎても健康に生きることができた」
カントは生涯、大病をすることがなかったそうです。この元は心にありました。心の持ちようが何より大事なのです。 日達上人の言われるところの〝感謝の心で生きる〟ということです