大事なことは幼い頃から

掲載日:2025年1月1日(水)

 ある日の朝刊のコラムに「ノバク・ジョコビッチは54回、ロジャー・フェデラーは11回、ジョン・マッケンローは78回」と書いてありました。ジョコビッチ、フェデラー、マッケンローは言うまでもなくテニスの超一流選手です。この数字は試合中にラケットを破壊した回数だそうです。

 最近ジョコビッチやフェデラーと覇を競ったスペインのラファエル・ナダル選手が引退しました。グランドスラム大会で歴代2位の22回優勝した名選手です。特にクレーコートの全仏オープンでは無類の強さを誇って「クレー・キング」「赤土の王」と称された人です。そのナダル選手は、試合中にラケットを一度も破壊したことがありません。それは幼い頃からコーチを務めた叔父が「強い選手よりも良き人間となれ」とずっと言い続け、「もしラケットを投げるようなことがあったら、私はコーチをすぐに辞める。そしてお前にテニスを辞めさせる」と厳しく教えたからだそうです。叔父の教えがナダル選手の心に刻まれていたのです。ナダル選手のいつも自分の感情をコントロールし、負けても悔しさをこらえ、相手を讃える姿。これは幼い頃から良き人間をめざした努力の賜であろうと思います。

 ゴルフでもクラブを投げる選手がたまにいます。あのタイガー・ウッズも若い頃は怒ってクラブを投げることがありました。タイガーは全米ジュニア選手権を三連覇し、続く全米アマチュア選手権でも三連覇を果たし、その後スタンフォード大学を休学して、プロになりました。その時のコーチがブッチ・ハーモンという人でした。そのコーチがタイガーに言ったのです。

「タイガー、君は確かに強いが、ボビー・ジョーンズやジャック・ニクラウスのような偉大なチャンピオンになりたいと思わないか」

「もちろんなりたいです。ただ強いだけではなく、人から尊敬されるようなチャンピオンになりたいです」

「それならクラブを投げることは絶対にしてはいけない」

「ではショットに失敗して、カッとなった時にどうやって怒りの感情を発散したらいいのですか」

「カッとなったら、10歩歩きなさい。それで発散できるよ」

「そんなことで発散できますか」

「とにかく、やってみなさい」

 タイガーはその教えに従い、10歩歩いたら嘘のように怒りの感情が消えたといいます。

 これには科学的な理由があります。人はカッとなるとノルアドレナリンという物質が脳内に分泌され、これが充満すると怒りが増幅するのです。ところがじっと我慢すると、大体8秒間でノルアドレナリンが消えていきます。コーチのブッチ・ハーモンが「10歩歩くように」と言ったのは、その間にノルアドレナリンが消えていくということだったのです。現在、タイガーはキャリアにおける数々の栄光から「史上最高のゴルファー」と称されることもあります。

 幼い頃から自分の感情を制御することを学ぶのは大事なことだと思います。私はよく新渡戸稲造博士の『武士道』の話をしますが、新渡戸博士はこの中で、武士は常に自己修養に励み、個々の人格形成に努めたと言われています。特に自分の欲望や感情をコントロールする「克己心」、困難に耐え抜く「忍耐力」、武士として恥ずべき行いをしない「恥を知る心」が重視されています。

 江戸時代には各藩に藩校があり、そこで学問と武士としての生き方を教えていました。名古屋・尾張藩には明倫堂という藩校がありました。明倫堂が明倫中学になり、現在は愛知県立明和高等学校となっています。先代日達上人の母校です。

 何と言っても藩校としてつとに有名なのは、会津藩の日新館だと思います。いまだに日新館に関する本がよく読まれています。

 当時の藩校はどこも学齢がおよそ10歳と決まっていました。10歳から教えるのでは遅いと考え、6歳になると幼児教育を始める藩もありました。会津藩もその一つです。会津藩では6歳から9歳までの藩士の子弟は、住んでいる地区ごとに10人ほどの組に分けて統括されていました。この組のことを「什」といいます。

 子ども達は大体午前中は家で『論語』や『孝経』などを勉強して、午後になると持ち回りで各家に集まり、みんなで遊ぶのです。年齢の違う子ども達の遊びの集団が「什」でした。

 会津藩では「什の掟」というものを作りました。必ず遊ぶ前に年長の什長が「什の掟・七カ条」を大きな声で読み上げ、ほかの者はこれを静かに聴き、一条読み終わるごとにお辞儀をしました。

 すべて読み終わると什長は「昨日、掟の違反者はいなかったか」と尋ねます。違反者があった場合は年長者間で相談して制裁を決定したのでした。

「什の掟」は次のようなものでした。

 一つ目は「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」です。これは「素直に従う」ということを教えています。

 二つ目は「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」です。これは「目上の人への礼儀」を教えています。

 三つ目は「嘘を言ってはなりませぬ」です。これは「信義を守る誠実さ」を教えています。

 四つ目は「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」です。これは「義に生きること」を教えています。

 五つ目は「弱いものをいじめてはなりませぬ」です。これは「人としての優しさ」を教えています。

 六つ目は「戸外で物を食べてはなりませぬ」です。これは「武士としての品格」を教えています。

 そして七つ目は「戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ」です。「什の掟」は武家の男子に対する教えです。幼い頃から色欲を慎めと教えているのです。

 日新館の「幼年者心得」に次のようにあります。「年若の時別して慎むべきは色欲なり。一生を誤り名を汚すものなれば、幼年の時より男女の別をわきまひ、色欲の話するべからず」

 つまり色欲によって名誉や家名を汚すことを会津武士は恐れたのです。

 最後にこうあります。

「ならぬことはならぬものです」

 つまり「問答無用」「いけないことはいけない」ということです。

 最後の言葉に関して、数学者の藤原正彦さんが著書『国家の品格』の中で「これが大事なんです。理屈や論理はいりません。『ならぬものはならぬ』と、こういうことを小さい頃から教えなければいけないのです。たいていの場合、説明など不要なのです」と言われています。

 昔、日教組の教研集会で傍聴していた高校生が、会の最後になってこんな質問をしたそうです。

「先生、なぜ人を殺してはいけないんですか」

 これに対して先生達は、誰一人それを論理的に説明することができなかったそうです。

 これに関して藤原さんは同書の中で言われています。「論理的に答える必要なんかなかったのです。『ダメなものはダメだ』と答えればよかったのです」

 会津藩では「什の掟」によって幼い頃から自らを律する心を養い、また什の仲間との遊びによって一体感を育むことができるように教えたのです。

 その後、学齢に達して日新館に入りますと、『日新館童子訓』という木版摺りの本がその子の家に配られました。その本には、会津の領民達の孝行譚や古今の名将達の武功譚、また会津の名臣達の忠孝譚などが書かれていました。

 この本は新入生用の道徳の教科書であり、「会津論語」とも呼ばれていました。各戸に配付されたのは父母や兄姉達が少年に読み聞かせを行えるように、という配慮でした。今回は孝行譚の中から、鬼ももらい泣きをするような話を紹介します。

 長薫という盲目の人を主人公とする話です。

 長薫は会津藩領である陸奥国大沼郡伊南郷の黒沢に住んでいました。大変な貧乏暮らしで、その上、両親は二人とも老衰して歩くことも不自由でした。他の盲人は小唄、三味線等の芸で身を立てる者が多かったのですが、長薫は芸が拙かったために毎日村々を回り歩いて、脱穀や粉ひきをしてわずかな賃金を得て暮らしていました。雇われた先で食事を出されると半分は食べ、半分は残して持ち帰り、両親に食べさせていました。また、いつもひょうたんを腰につけていて、もし雇われた先でお酒を振る舞われると、自分は一滴も飲まずにそのひょうたんに入れて持ち帰り、親にすすめました。村人が憐れんでもっと食物を与えようとしても、固辞して受けず、理由のないもらい物を決して受け取りませんでした。昼間は雇われて終日働きづめに働き、疲れていても夜は山に行って薪を取り、寒い夜には爪木(細枝)を折り、焚きながら父母の背中をさすり、夏は涼しい場所に背負っていき、団扇であおぎながら、あちこちで聞いた世間話をして父母の心を慰めました。いつも通る道の途中に只見川という川があり、そこには橋が架かっていたのですが、長薫は一度もその橋を渡ったことがありませんでした。いつもわざわざ川下に回って浅瀬を歩いて渡っていました。ある人が訳を訊ねると、長薫は、「あの橋の下はとても水が深いそうです。もし私が誤って橋から落ちて溺れてしまったら、父母がどんなに悲しむでしょう。悲しむだけではありません。私が死んでしまったら、父母はたちまち飢えに苦しむでしょう。ですから、たとえ体が冷えても浅瀬を渡るに越したことはないのです」と答えました。

 無能、無芸と人に言われ、しかも貧乏で盲目の身の長薫が〝一たび足を挙ぐるにも父母を忘れず〟という古の曾子の教えの通りのことを、誰に教わったのでもなく実践していたのです。明暦三年(1657)の秋、国家老より報告を受けた初代藩主・保科正之はその孝行を賞して、両親と長薫に毎月三人扶持の手当を支給するよう指示したというお話です。

 ここで歴史上有名な会津藩士を紹介したいと思います。柴五郎陸軍大将です。柴大将は明治元年、10歳の時に日新館に入学しました。明治維新後は辛苦の後に陸軍士官学校を卒業して砲兵将校となり、明治33年(1900)の北清事変に際しては中佐として北京の日本公使館にあり、少数の護衛兵と義勇兵の総指揮官として、六十日あまりにわたって義和団の攻撃から、日本公使館は言うに及ばず、各国公使館の居留民を守り抜いたのです。

 事変後、柴大将は大英帝国のヴィクトリア女王から勲章を授与されました。当時の『タイムズ』誌の社説に次のように書かれていました。

「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城をもちこたえさせたのだ」

 この後、大英帝国から同盟の提案があり、日英同盟が結ばれました。これは言うまでもなく、柴大将の活躍があってのことです。そして、この同盟が日露戦争勝利の真因となったのです。

 最後に柴大将の日新館回顧談を原文のまま紹介します。

「余は入学早々、童子訓の教授を受けたりしが、此の童子訓こそは余の生涯に重大なる影響を及ぼせる書と言ふべく、屢々朗読する間に多くは其の文句を暗記せり。余は戊辰の役に家族の殉難に遭ひ、住み慣れたる邸宅は灰燼に帰し、爾来、流離顚沛、給仕となり、書生となり、食客となりて具さに人生の苦楚を嘗むるに到りしが、然も能く不善、堕落の道に踏入る事なく、大過なく今日あるを得たるは、一に藩教育の賜に外ならざるなり。即ち六歳より施されたる『ならぬことはならぬ』藩独特の訓育、錬成と、その取扱ひに於ても鄭重を極めたる童子訓によりて、忠信孝悌の大道を教えられたる結果なり。実に童子訓は、会津藩政時代、会津学生が各々其の一生涯を通じて最も深き感化、影響を受けたる書なり」  今回は幼い頃からの正しい教育がいかに大事かというお話でした。