親孝行のこと

掲載日:2024年10月1日(火)

盂蘭盆会の時、仏弟子の目連尊者が布施の功徳を積み、それを回向して慳貪の罪によって餓鬼道に落ちたお母さんを救ったという話をさせていただきました。私は、これは真の親孝行の話だと思います。

 日蓮聖人は開目鈔の中で次のように言われています。

「孝と申すは高なり、天高けれども孝よりは高からず。又孝とは厚なり、地厚けれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家より出でたり」

(孝ということは高ということである。天が高いといっても孝の徳より高いことはない。また孝とは厚ということである。大地がどれほど厚いといっても孝の徳より厚いことはない。古の聖人や賢人と言われる人は孝を重んじることを生き方の根幹としている)

 戦前の『修身』の教科書に次のように書かれています。

「孝は百行の基」「一孝立ちて万善これに従う」

「孝は百行の基」とは〝孝行はさまざまな善い行いの基礎となり、孝心なくして善い行いはできない〟ということです。

「一孝立ちて万善これに従う」とは、

〝孝行な人は自然に色々な善い行いができて、自ずと徳が集まる〟ということです。

 日本では昔から親孝行は大変尊ばれてきましたが、戦後になって教育内容が変わり、『修身』もなくなり、親孝行を声高に言うことがなくなってきました。

 昔の書物には『修身』以外にも親孝行の話がたくさんありました。東海地方では、「養老の滝の話」が有名です。孝行息子の徳で滝の水が酒に変わったという話です。

『暴れん坊将軍』で有名な徳川吉宗の話を紹介したいと思います。徳川吉宗は享保の改革で幕府の財政を立て直した名君として有名ですが、次のような逸話があります。

 ある時、吉宗が鷹狩りに出かけました。そこに「将軍さまを一目見たい」と大勢の人が集まってきました。鷹狩りの行列が、ある村を通り過ぎる時に、老母を背負った若者がいました。吉宗がその姿を見て、家来に事情を聞きに行かせました。すると村の顔役が言うには「あの男は有名な孝行息子で、母親が『冥土の土産に一目将軍さまを見たい』と言うので、遠方から母親を背負ってきたのです」ということでした。それを聞いた吉宗はその若者に大層な褒美を取らせました。次の年も吉宗は鷹狩りに出向き、同じ村に通りかかりました。するとまた老母を背負った若者がいたのです。前回と同じように様子を聞きに行かせたところ、村の顔役は言いました。

「あれは駄目です。去年の話を聞いて、普段は家にも寄りつかないのに、褒美欲しさに母親を背負ってやって来たのです。あんな者に褒美をやってはいけません。癖になります」

 それを聞いて吉宗は言ったそうです。

「いいではないか。真似事でも善いことをしているのだから、褒美をやれ」

 すると、その村では親孝行を真似する者が増え、それが自然に本当の親孝行となって、ついには「孝行村」と言われるようになったという話です。「真似でもいいから褒美をやれ」という吉宗の寛大さ、さすが名君です。

 このような話が江戸から明治にかけてたくさんあります。

 中国に『二十四孝』という、二十四人の孝行者の話があります。これは江戸から明治にかけて日本では知らない人はいないくらいに有名な話でした。二十四人の中から数人の話を紹介します。

 まず孟宗竹に名を残す孟宗です。

 幼い頃に父を亡くした孟宗には病気の年老いた母親がいました。その母親が真冬に「筍が食べたい」と言ったのです。真冬に筍があるわけがありません。しかし孟宗は天に祈りながら、母親のために雪の中で筍を探したのです。すると、孟宗のその親孝行の心が天に通じたのか、雪が溶け、筍が生えてきたのです。孟宗がその筍を家に持って帰り、料理をして母親に食べさせたところ、母親の病気が治ってしまったというお話です。

 舜という人の話も有名です。舜は父親と、継母が連れてきた息子に三度も殺されそうになります。毒を飲まされそうになったり、生き埋めにされそうになったり、屋根に登っていると下から火をつけられたりしました。何度も殺されそうになるのに、舜は孝行を止めませんでした。〝自分の孝行が足らないからこういう目に遭うのだ。もっと孝行をしなければ…〟と考えたのです。

 やがて父はついに真人間になったということです。

 時の天子・堯帝が舜の人となりを聞いて、「そんな感心な者がいるのか」と、舜の様子を見た上で自分の娘を嫁がせ、ついには自分の跡継ぎ(舜帝)としました。

 この話は孝行息子が皇帝にまでなったという話として有名です。中国には聖天子と呼ばれる人物が五人いますが、その中に堯帝と舜帝が入っています。

 最後に呉猛の話です。呉猛の家は非常に貧乏で、夏に蚊をよける蚊帳を買うお金がありませんでした。母親が蚊に刺されて可哀想だということで、ある時呉猛は裸になり、酒を体に吹きつけ、蚊を自分に引き寄せて、母親が蚊に刺されないようにしました。するとその行いに天が呼応して、呉猛の体にも蚊を寄せつけず、二人とも蚊に刺されることがなかったという話です。

『二十四孝』の話は、江戸から明治にかけて孝行を勧める訓話として有名でしたが、進歩的な考えの慶應義塾の創立者・福沢諭吉は、著書『学問のすすめ』の中で、

「この書を見れば、十に八、九は人間にでき難きことを勧るか、又は愚にして笑うべきことを説く」と批判的です。呉猛の話などは「夏の夜に自分の身に酒をそそぎて蚊に喰われ、親に近づく蚊を防ぐより、その酒の代を以って蚊帳を買うこそ智者ならずや」と言っています。

『二十四孝』は落語にもなっています。今では古典落語の一つです。先ほどの呉猛の話が下げになっています。

 親不孝な男が大家さんから「少しは孝行せよ」ということで、『二十四孝』の話を聞かされます。この男は心を入れ替えて、ちょっと真似してみようと、『二十四孝』のうちのいくつかの話を実際やってみようとします。しかし中々うまくいきません。最後に、呉猛の真似をして酒を買ってきて体に吹きつけて、「おっかあ、今日は蚊が来ないようにしてやるからな」と言います。ところが元々酒が好きなものですから、ほとんど飲んでしまい、ついに酔い潰れて寝てしまいます。朝起きたら、蚊に刺されていません。そこで母親に「どうだ、酒を塗ったのにわしは刺されなかったぞ。天が呼応したってやつだ。孝行の功徳ってやつだな」と言ったら、母親が「何を言ってるんだい。私が一晩中あおいでやったから蚊が来なかったんだよ。この親不孝者」と言ったという話です。

 法音寺の始祖・杉山辰子先生は、「法華経を実行する者は親孝行でなければならない」という話をよくされました。

 御開山上人がその体験を「柔伏」という題のご法話で語っておられます。杉山先生から「法華経の教えを行う者が親の心に随うことができぬようではならない」と聞かされた御開山上人は三日程思案され、親の言うことは二つ返事で聞くと決心されたそうです。御開山上人のお父さん・徳太郎さんは中々頑固で、人の言うことや息子の言うことを聞かない人でした。そこで、〝父の言うことを「はい」と言って、随っていけるかな…〟と三日間考えられたそうです。その後、数年経って徳太郎さんが、「お前ほど、わしの言うことをよく聞いてくれる者はおらん」と言われたそうです。ここからが肝心ですが、それから御開山上人は徳太郎さんに、杉山先生の話、即ち慈悲・至誠・堪忍の三徳と行住坐臥のお題目の話をされたのです。すると、徳太郎さんは「そうかそうか、わしは今まで法華経が、日常において実行して価値のある教えだとは知らなかった。ありがたいことを聞いた」と言われたそうです。それから熱心に御開山上人の話、要するに杉山先生の話を聞くようになったのです。それ以前は、実は徳太郎さんは「わしの方が法華経のことはよく知っている。お前なんかには負けない」という風だったのです。それが、父親の心や言葉に従うように自らを変えたら、逆に父親が自分に随ってくれたということです。

 これは親子だけではなく、人間関係のすべてに当てはまります。人に言うことを聞いてもらおうと思ったら、まず聞いてあげなければ駄目です。「自分の言うことだけを聞いてくれ」というのは無理があります。やはり、人の言うことを聞いて、親切にして初めて、自分の言うことも聞いてもらえるのです。

 その後、徳太郎さんは御開山上人を全面的に支援され、最後は土地屋敷をすべて布教に役立たせるようにと遺言されて亡くなられました。現在その土地に開基堂が建っています。

 日本の孝行の思想は儒教の影響が大きいと思われます。

 儒教の中に『孝経』というものがあります。これは孔子が弟子の曾子に孝道について語ったものです。

 わが国では、聖徳太子の頃にはすでに『孝経』は伝わっていました。そして奈良時代の孝謙天皇の御代には、家毎に『孝経』一本を蔵するように詔があったそうです。

 時代が降って平安時代の淳和天皇の御代では、皇太子の読書始めに『孝経』が用いられるようになりました。

 鎌倉時代になると将軍の読書始めにも用いられるようになり、江戸時代には大名の若君の漢籍の習い始めに用いられました。明治の頃からは国民道徳の振興のために広く読まれるようになりました。

 その『孝経』の最初に孔子は次のように語っています。

「孝はあらゆる徳と称せられるものの根本をなすもので、徳というものも畢竟は孝にほかならぬものである。故にこの徳の根本が確立して後に初めて、人の踏み行う道も生ずる。すべての教えというものは、これから起こってくるのである。即ち徳といい、道というも皆この孝以外にはないのである」

 その後に孔子は「そんなにむずかしく考えることはない」とも弟子の曾子に語っています。

「例えば、親からいただいた体だからと健康に気をつけるのも親孝行だ。日々徳を積もうと思って生活をすれば、それも親孝行である」

〝日常の中に親孝行はある〟ということなのです。

 また『孝経』の最後には次のようにあります。

「親を祀る時は神仏を祀るようにせよ。そして命日等には必ず生前のことをみんなで語り合いなさい。それが功徳になる」

 一万円札の肖像画になった実業家・渋沢栄一も非常に親孝行を尊んだ人でした。当時、和田豊治という実業家がいました。この人は親孝行で有名でした。渋沢栄一は 〝孝行者はこんなに繁栄するということをみんなに広めたい〟と、わざわざこの人のために大宴会を催して表彰しました。そして記念品を贈ったのですが、その記念品が『孝経』でした。長い経典ですが、渋沢栄一自らが写経して、一本の巻物にして、「和田君、君のような人物がどんどん増えることを願っている」と言って手渡したそうです。

 渋沢栄一の著書に、ある孝行息子の話があります。これを最後に紹介します。

 江戸時代、九州の豊前国宇佐郡津房村という所に神崎右京という人がいました。この人の家は代々若宮八幡の神職だったそうですが、たいへん貧乏でした。その人に八十二歳の母親がいました。足が不自由で、その上眼病に罹って目がほとんど見えませんでした。右京はこの老いた母親に誠実に仕え、できる限り喜ばせようと努めていました。ある日、母親が嘆いて言いました。

「私は若い時から一度、信濃の善光寺さまにお参りしたいと思っていたが、足も悪くなって歩けないし、目も不自由だし、とても生きている内には行けそうにない」

 それを聞いた右京が言いました。

「母上、ご心配なさるな。必ず私がお供して参詣していただきます」

 そして子の多宮にこう言ったのです。

「母上が信濃の善光寺へ参詣したいとおっしゃっている。道中母上を背負っていくつもりだ。しかし、なにぶん長旅となる。お前も加勢してくれぬか」

 多宮も快く承諾し、寛政五年の春三月に豊前の国を出発しました。時に右京は五十三歳、息子の多宮は二十二歳でした。二人は母親を代わる代わる背負って旅を続けました。貧乏ですから路銀(旅費)が充分にありません。母親だけを宿に泊めて、自分達はほとんど野宿をしました。そして三百里(およそ千二百キロ)の道を数カ月かけて善光寺に着きました。参詣を遂げた三人は、また数カ月かけて豊前の国に戻りました。このことが領主に伝わって、「立派な孝行心だ」ということで、右京と多宮は大変な褒美を賜りました。

 渋沢栄一が言っています。 「皆さん、どうですか。鬼ももらい泣きをするような良い話ではないですか。孝行者の話は、どこの国の話でも、いつの時代でも、いいものですな」