心を柔らかく

掲載日:2024年8月1日(木)

 東海道新幹線の上りの座席は、富士山がよく見えるという理由から進行方向(東京方面)に向かって左側の方が人気だそうです。

 日本人は富士山が大好きです。「一富士二鷹三茄子」と言いますが、正月の初夢に見ると一番縁起が良いとされるのも富士山です。

 富士は「不死」に通じるので不老長寿を、鷹は「高・貴」と訓が共通するので出世栄達を、茄子は「ことを成す」で物事の成就を意味するという説があります。

 ちなみに、「一富士二鷹三茄子」の後は、「四扇五煙草六座頭」と続きます。扇は「末広がり」、煙草は「(煙が)立ち上る」、座頭は「坊主頭(毛がない=怪我ない)」ということだそうです。

 最近、富士山にまつわるニュースが二つありました。一つは、東京の国立市のマンションが完成したにもかかわらず、近隣からの「富士山が見えにくくなる」という苦情で、引き渡し直前に取り壊されるという話です。国立市には「富士見通り」という通りがあります。その通りの両側に商店街があり、そこから富士山がよく見えるそうです。その富士見通りの端にこのマンションは建設されました。当初11階建てで予定されていたところ、付近住民の反対があり、10階建てに変更されたそうです。それでも、批判があまりにも多かったので、施工業者が完成したマンションの自主的な解体を決断したというのです。おそらく、そのマンションからは、富士山がよく見えたでしょうから、入居を予定していた人達は残念がったのではないかと思います。

 もう一つのニュースは、山梨県・富士河口湖町にあるコンビニの話題です。このコンビニの上に雄大な富士山が乗ったように見えるのです。その評判がSNSで拡がり、外国人観光客が大勢押しかけるようになったそうです。しかし、観光客が撮影のために交通量の多い道路を横断したり、無断で私有地に入ったりする行為が後を絶たないことから、町の人達が迷惑を被るということと危険防止のため、その一帯に黒い幕を張りめぐらして富士山を見えなくしたそうです。

 富士山が好きという点では日本人も外国人も変わらないようです。

 富士山といえば、葛飾北斎の「富嶽三十六景」が有名です。「三十六景」と言いますが、実際は四十六景あります。当初は三十六景でしたが、その後、人気が出て十景足したそうです。最初の三十六景を「表富士」、後の十景を「裏富士」と呼びます。特に人気があるのが、「凱風快晴」(通称:赤富士)です。昔から部屋に飾ると縁起が良いと言われています。最も有名な「神奈川沖浪裏」は新千円札の裏面に採用されました。また、「尾州不二見原」は現在の名古屋市中区富士見町周辺から見た富士山が描かれています。その絵には大きな樽を作っている職人が描かれています。そして遠くに小さな富士山が見えるのです。北斎は弟子が名古屋にいて、何度か遊びに来ていたようで、その時に「不二見原」という地名に興味を持ってこの絵を描いたそうです。

 しかし、実際は名古屋から富士山が見えることはありません。北斎の研究者がその地名の由来を調べてみたところ、富士山が見えたという記録はあるそうですが、本当のところは南アルプスにある聖岳を富士山と見誤ったということだそうです。

 北斎は世界的にも非常に評価の高い人物です。

『LIFE(ライフ)』というアメリカの有名な雑誌があります。その雑誌が1998年に「この1000年間で最も偉大な業績を残した世界の偉人100人」という特集を組み、その中にレオナルド・ダ・ヴィンチやシェイクスピア、エジソン、アインシュタインと並んで唯一人の日本人として葛飾北斎をとりあげたのです。

 北斎の代表作はほとんどが70歳を過ぎてから描かれたものです。平均寿命が40歳未満であった江戸時代に、北斎は90歳まで生き、絵を描き続けたのです。6歳から絵を描き始め、19歳の時に浮世絵師・勝川春章の弟子になり、勝川春朗と名乗って歌舞伎役者の絵を描いていました。今の時代でいうと、アイドルやスターのブロマイドのようなものを描いていたのです。勝川派を離れた後は、江戸琳派の先駆者・俵屋宗理の弟子になり、今度は江戸庶民の女性の絵を描いて、とても人気を博したそうです。その後、賄賂政治で有名な、老中・田沼意次の後を継いだ松平定信が「寛政の改革」という緊縮政策を行い、〝世の中の風紀を乱す絵は一切禁止〟となりました。役者や女性の絵が描けなくなってしまった北斎は、小説の挿絵を描くようになりました。北斎は70歳を過ぎた頃に、次第に絵が上達していることを自覚して次のように言っています。

「70歳以前の絵は取るに足らないものだった。73歳になった頃、鳥獣虫魚の骨格や草木の生まれいずる様子をいくらかは悟ることができた。だから80歳になればより向上し、90歳になればさらに奥義を極め、100歳で神の業を超えることができるのではないか。そして110歳で点や線のすべてが生きているかのごとく描けるようになるだろう」

 しかし、また北斎に危機がやってきます。天保の大飢饉が起こったのです。大阪では、有名な大塩平八郎の乱が起こりました。幕府はさらなる緊縮政策(天保の改革)をとり、芝居や絵など娯楽的なものを一切禁止したのです。ちなみに七代目市川團十郎は江戸追放になっています。商売ができなくなり、生活に困った北斎は闇で絵を描いて、それを道端で売ったのです。そこをたまたま通りかかった信濃の小布施の豪商・高井鴻山が気に入り、高値で買い上げました。その後に高井鴻山は言いました。

「お金はいくらでも出すから、小布施にある檀那寺・岩松院の天井絵を描いてほしい」

 北斎はそれを引き受け、江戸から信濃の小布施まで中山道を通って絵を描きに行きました。東海道よりも道が険しい中山道を、往復500㎞ある道のりを、北斎は四回も往復したのです。完成時、北斎はなんと89歳でした。完成した岩松院の天井絵は畳21畳の大きさで「八方睨み鳳凰図」という北斎最晩年の傑作です。

 現在、小布施には北斎の記念館・北斎館があり、北斎が描いた祭屋台の天井絵など数々の作品が展示されています。

「110歳まで生きたら…」と言っていた北斎は、小布施から江戸に帰って間もなく90歳で息を引き取ります。

 その臨終の様子が『葛飾北斎伝』にあります。

「翁(北斎)死に臨み、大息し、『天我をして十年の命を長ふせしめば』といひ、暫くしてさらに謂て曰く、『天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし』と、言訖りて死す」

〝あと十年、いやせめて五年、生かしてくれ。そうすればまことの絵師になってみせる〟

 北斎は臨終の瞬間まで、絵に対する燃えるような情熱を持ち続けていたのです。

 ここで逸話を紹介しようと思います。北斎は80歳を過ぎて、達人の域にあったと思われる頃に、こんなことを言ったそうです。

「まだ猫一匹まともに描けない」

 そして涙を流したと言います。

 かつて、日本画の最高峰であった横山大観が、日本画壇の総会の時に、重鎮として挨拶に立ち、「絵はむずかしい。わからん」と言い、聞いた人達が恐れ入って頭を垂れたという話を思い出します。

 他にも北斎は画号を三十回以上変えたことで有名です。また「引っ越し魔」だったことでも有名です。生涯で九十三回転居したという記録があります。驚くことに一日に三度引っ越したこともあるそうです。

 北斎は「百回引っ越したという俳人・寺町百庵に倣ってわしも死ぬまでに百回転居したい」と言っていたようです。引っ越しばかりしていた理由は他にもあります。北斎は絵に集中しすぎて、部屋の片づけを全くしなかったのです。食べたものはそのまま、部屋の中はもうぐちゃぐちゃです。あまりにも汚くなって、住みにくくなると引っ越したのです。

 北斎には出戻った娘・お栄がいました。画号を葛飾応為といいますが、この人も絵が上手だったそうです。しかし、二人とも物臭で、全く掃除をしないし、料理も作らず、人からもらったものや買ってきたもので済ませていました。蕎麦の出前で済ませたことも多かったようです。二人は9月下旬から4月上旬まで半年以上、昼夜こたつに入って、絵を描き続けたそうです。絵を描くことだけにすべてを尽くしたため、生涯貧乏で、生活に困っていたという話もあります。しかし、平均寿命40歳未満の時代、北斎のような生活をした人が歳を重ねても元気で、90歳になっても素晴らしい絵を描き続けたということを皆さんはどう思われますか。

 私は北斎の人生を知ってアメリカの詩人、サミュエル・ウルマンの『青春』という詩を思い出しました。GHQの総司令官、ダグラス・マッカーサー元帥が座右の銘としていたことで有名な詩です。

 青春とは人生の或る期間を言うのではなく

 心の様相を言うのだ

 逞しき意志 優れた想像力 炎ゆる情熱 

 怯懦を却ける勇猛心 安易を振り捨てる冒険心

 こういう様相を青春というのだ

 歳を重ねるだけで人は老いない

 理想を失う時に初めて老いがくる

 歳月は皮膚のしわを増すが

 情熱を失う時に精神はしぼむ

 苦悶や狐疑や不安 恐怖 失望

 こういうものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ

 精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう

 歳は七十であろうと 十六であろうと

 その胸中に抱き得るものは何か

 曰く 驚異への愛慕心 空にきらめく星晨

 その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰

 事に処する剛毅な挑戟

 小児の如く求め止まぬ探求心

 人生への歓喜と興味

 人は信念とともに若く 疑惑とともに老ゆる

 人は自信とともに若く 恐怖とともに老ゆる

 希望ある限り若く 失望とともに老い朽ちる

 大地より 神より 人より

 美と喜悦 勇気と壮大

 そして偉力の霊感を受ける限り

 人の若さは失われない

 これらの霊感が絶え

 悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし

 皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば

 この時にこそ人は全くに老いて

 神の憐みを乞うほかはなくなる

 まさに北斎の人生を彷彿とさせる詩だと思います。

 最近の健康法では「食べる物に気をつけなさい」とか「日常的に運動をしなさい」とよく言われますが、北斎はまったくその逆でした。確かに健康のために動くことは大事だと思います。動かないとだんだん身体が硬くなってきます。ですから健康のためには、「ストレッチをしなさい」とか「歩きなさい」と言われます。身体を動かすと血管や内臓も柔らかくなります。それによって脳梗塞や心筋梗塞、諸々の病気の予防になるわけです。

 しかし、やはり一番大事なことは、北斎の生涯でわかるように、身体以上に心を柔らかくすることだと思います。歳を重ねると、心が固くなって、頑固になりがちです。また物事に対する興味、関心も薄らいできます。『青春』の詩のように、できる限りしっかりとした理想や目標を持って生きていくことができれば、さらにそこに三徳の教えがあれば、間違いなく有意義な人生が送れると思います。