先日あるお母さんから相談を受けました。その方は小学生の娘さんに友達が少ないことを大変心配しておられ、〝来年、中学校に進学したら、友達がたくさんできるように〟と切に願っておられました。
また別のお母さんですが、息子さんが大学に入学後、なかなか友達ができず、「学校に行くのが楽しくない」と言っていることを心配されていました。
そういう方達に私はいつも同じ話をしています。
私の学生時代に、ある青年雑誌に今東光というお坊さんの人生相談のコーナーがありました。今東光和尚は天台宗の大僧正で、瀬戸内寂聴さんの師匠にあたる方です。作家で参議院議員でもありました。型破りなお坊さんで痛快な人生相談でした。『極道辻説法』という題で、当時の若者に大変人気がありました。
ある時、「和尚、僕は東京に一人でやってきて大学に入学しました。しかし友達ができなくて寂しくて仕方がありません。どうしたらよいでしょうか」という相談がありました。これに対して、今東光和尚は「あぁ、友達か…。そんなものは要らんだろう」という答えでした。その理由は、「寂しいからと人に擦り寄っていっても、ろくな友達はできない。それよりも今自分のやるべきことをしっかりやれ。そうすれば良い友達もできるし、彼女もできるぞ」というものでした。
さすがと言える、鋭い説法だと思います。しかし、そうは言っても誰もが友達は欲しいものです。私にも似たような経験があります。
私は浪人をして東京の早稲田大学に入ったのですが、当初友達も話し相手もなく、とても寂しい思いをしました。入学式の後にオリエンテーションがあり、学生生活について指導があったのですが、そこで偶然に小・中学校時代の同級生と会いました。九年間同じ学校に通っていたのですが、お互い名前を知っているだけで、直接話したことはありませんでした。しかし、再会した晩に夕食をともにし、その日は夜中まで、何時間もいろいろな話をしたのを覚えています。二人ともよほど人恋しかったのだと思います。
今回は友ということに関してお話をしたいと思います。
鎌倉時代末期に吉田兼好が書いた『徒然草』に友についての記述があります。
「友にするのによくない者が七つある。一つには、身分の高い人。二つには若い人。三つには無病で身体の強い人。四つには酒を飲む人。五つには勇猛な武士。六つには嘘をつく人。七つには欲深い人」
この中で「嘘をつく人」と「欲深い人」はわかりますが他の五つについてはあまりピンときません。しかし、別の章段を読むとそこにヒントがあります。
「同じ心をもっているような人としんみり物語りして、おもしろいことでも、つまらない世間話でも、心のへだてなく言い慰め合えるとしたら、それこそうれしいに違いない」
キーワードは「同じ心」です。価値観の一致しない人は友としてよくないということのようです。
上智大学名誉教授であった渡部昇一先生が『知的余生の方法』の中で友について語っておられます。「若い時には思想、信条が違っても、つきあえるものだ。意見の違いが、かえって自分の考え方をはっきりさせることもあるだろうし、相手の方がよく勉強していると気づくと、自分もより深く勉強するようになる。若い時には、考え方の違いが、自分を高めることに役立つこともある。けれども、年をとるとだんだん考え方の違う人とは付き合いたくなくなるものだ。一緒にいておもしろくも楽しくもない。長年培ってきた基本となる思想、信条の違いは大きいのである」
渡部先生も「同じ心」ということを言っておられるのだと思います。
私自身、大学時代に思想・信条の全く異なる友人がいましたが、当時は彼らと話をしていても、それなりにおもしろかったことを思い出します。しかし今、思想・信条の違う人と一緒にいてもあまり楽しくありません。やはり法華経を基本とした考え方、「徳を積むことがすべての肝心である」という考えの人と過ごすことが一番楽しいと感じます。
兼好は良き友についても書いています。
「良い友に三つある。一つには物をくれる人。二つには医者。三つには知恵のある人」
これは現代に置き換えると慈善事業家とお医者さん、弁護士さんということになるでしょうか。非常に正直で実利的でおもしろいと思いますが、兼好の本心は違うところにあったようです。それは次の言葉からわかります。
「ただ一人灯火の下で書物をひろげて、見も知らぬ昔の人を友とするのは、この上もなく心慰むことである」。兼好は孤独な境地を楽しむ一流の文人であったのです。
孔子の『論語』にも友についての記述がいくつかあります。
顔淵篇に「君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔く」(立派な人物は文化・教養によって友人と相対し、友人との付き合いを通じて徳性を高める助けとする)とあります。
同じ顔淵篇に「子貢友を問う。子曰く、忠告をして善くこれを導く。不可なるときは則ち止む。自ら辱しめらるることなし」(子貢が交友の道をたずねた。先生はこたえられた。真心を込めて忠告しあい、善導しあうのが友人の道だ。しかし、忠告善導が駄目だったら、やめるがいい。無理をして自分を辱しめるような破目になってはならない)とあります。
この友人への忠告について『論語と算盤』を書いた日本資本主義の父、渋沢栄一が蘊蓄のあることを言っています。
「荘子も君子の交わりは、淡きこと水の如しと言っているが、論語の言葉とともに味わうべき言葉である。私はきわめて親密な人だとか、若い青年は別としてめったに諫言苦言を言わないことにしている。私の多年の経験によれば、自分と処世の流儀が全然違う人に対しては、どれほど自分の意見を述べて同意させようとしてみても、無駄な努力に終わることがほとんどである。しかし、縁が切れてしまえば、それまでである。だから、こちらが短気にならず、年月をかけて良い機会を待つことが大事である」
もう一つ『論語』の里仁篇から紹介します。
これは直接友ということではありませんが、知人・友人・縁者を見てということです。
「子曰く、賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては而して内に自ら省みるなり」
これは、他人の言動を見ては、それをすべて自分を磨く手本とせよという意味です。世の中の賢人も愚者も自分にとって先生なのです。
「鍋島論語」と呼ばれる武士道の指南書・『葉隠』の中に次のような言葉があります。
「どんな悪筆の者でも、良い手本をまねて、一生懸命に習えば、それなりの字は書けるようになる。奉公人も、立派な奉公人を手本にしたなら、それなりの働きはできるようになるはずだ。すべての芸事にいえることだが、弟子は師匠の優れた点はなかなかまねができず、かえって悪いところばかりを引き継いでしまう傾向がある。これでは何の役にも立たない。人の優れた点に気がつくことができれば、誰であっても良い手本、良い師匠となることだろう」
これは本当にそうで、私達は良いところを真似るより、悪いところを真似てしまうことが往々にしてあるものです。子どもは親の言った通りにはしないけれども、親のした通りにはするということも同じではないでしょうか。
お釈迦さまも、友について語っておられます。シンガーラという資産家の息子に対して語られたところによりますと、「悪い友四種類、善き友四種類」とあります。
「悪い友とは、何でも取っていく人、言葉だけの人、甘言を語る人、遊蕩の仲間。これらは友に似た者に過ぎず、実は敵である。本当の善き友とは、助けてくれる友、苦しい時も楽しい時も一様に変わらない友、その人のためを思って話をしてくれる友、同情してくれる友である」
ここでいう「同情してくれる」とは〝大慈悲を以って接してくれる〟という意味です。それに付け加えて「同情してくれる友とは、あたかも母親が、己が子を慈しむがごとく接してくれる友である」とおっしゃっています。
〝母親が己が子に接するように〟というのはわかりやすい例えだと思います。父親は子どもに対し、どうしても理屈中心で接してしまいます。父親は子どもを訓育しようとするからです。一方、母親は愛情中心で子どもに接します。
妻が亡くなった時、息子の廣修が思い出を書きました。それが昨年の『法音』1月号に掲載されました。廣修は大学入学後、ストレスで学校に行けなくなったことがありました。その時に、妻がすぐ東京の下宿に行き、開口一番「つらかったね。大変だったね。とりあえず一緒に名古屋に帰ろうね」と声をかけたのです。廣修は当初叱られるかと思ったそうですが、「その言葉ですごく心が楽になった」と言っています。父親だと、「どうしたんだ。何をしているんだ」と言ってしまいがちですが、〝あれが母親の接し方だな〟と私は思いました。
お釈迦さまがある日、祇園精舎で次のように説かれました。
「比丘達よ、朝な朝な太陽が東にのぼるときには、その先駆として、またその前相として、東の空に明るい相が出ずるであろう。比丘達よ、それと同じく、比丘達が八つの聖道をおこす時にも、その先駆たり、その前相たるものが存する。それは善き友のあることである」
お釈迦さまがサッカラという村におられた時、常隨の弟子、阿難がふと、この善き友についてたずねました。
「大徳よ、善き友を有するということは、この聖なる道の修行のなかばをなすものであると思われますが、いかがでありましょうか」
この時阿難は、善き友を持つことの意義を高く評価しすぎているのではないかと内心思っていたのです。しかるにお釈迦さまは、
「阿難よ、この言をなすなかれ。善き友をもつということはこの道の聖なる修行のすべてである。善き友をもつ者は生・老・病・死より解脱し、愁・悲・苦・悩からも解脱することができるのである」と答えられたのです。
つまり、善き友を持つことによって人生は幸福となり、悪しき友を持つことによって、人生が不幸になるということです。
皆さん〝善き友を持ちたい〟と思われたことでしょう。それにはまず、自分が人にとって善き友になるように努力をしなければいけません。