無量の慈しみの心

掲載日:2022年9月1日(木)

7月8日の安倍元総理の突然の死は日本中に衝撃とともに深い悲しみをもたらしました。犯人は旧統一教会に対して強い怨みを持っての犯行だったということですが、安倍元総理も旧統一教会への怨みが自分に向いてくるとは思いもよらなかったことと思います。

中国の古い歴史書に『戦国策』というものがあります。これは秦の始皇帝が中国を統一するまでの戦国時代のことをまとめた書物です。その中に「怨みは深浅を期せず、それ心を傷うに於いてす」という言葉があります。ささいな怨みでも、相手の心を傷つければ、手ひどい報いを受けるということです。この言葉の典拠となった出来事を紹介します。
 戦国時代に、中山という小国がありました。ある時、王が国中の名士を招いて一席もうけました。その席に司馬子期という者がつらなっていましたが、どうした手違いか羊のスープが足りなくなり、末席に座っていた司馬子期のところまでスープが回ってこなかったのです。司馬子期は怒って帰ってしまい、そのまま中山を出て行き、隣の大国、楚に身を寄せました。そして、楚王をけしかけて中山を攻撃させたのです。あっという間に小国の中山は滅ぼされてしまい、中山王は命からがら国外へ逃げ出しました。
 その逃げた王を、長い戈を持って追いかけてくる屈強な二人の若者がいました。王は〝刺客が来たか〟と思い、「何者だ」と声をかけると、思わぬ返事が返ってきました。若者は「数年前に王さまから一壺の食べ物を与えられて、餓死を免れた者がおりました。私どもは、その者の倅でございます。父は今際の際に『中山君に事あらば、命に代えてもこのご恩に報いよ』と言い残しました。〝今こそご恩に報いる時だ〟と思い、急ぎ馳せ参じた次第でございます」と言いました。そこで、中山王は深く嘆息して「わずかな施しでも相手が困っている時には、その効果はてきめんである。ささいな怨みでも相手の心を傷つければ、手ひどい報いを受けるものだ。私は一杯のスープで国を失い、一壺の食べ物で二人の勇者を得た」と語ったといいます。
 私達もどこで怨みを買っているかわかりません。だからこそ、普段の言動に気をつけなくてはいけません。そして、いつでも、どこでも、誰に対しても慈悲の心を持たなくてはいけません。それが巡り巡って自分自身に返ってくるのです。

慈悲は仏教を象徴する言葉です。古い経典『スッタニパータ』に「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対して、無量の慈しみの心を起こすべし」とあります。このような心こそが仏さまの心です。

臨済宗円覚寺派の横田南嶺管長が、『スッタニパータ』のこの言葉をあるご法話で紹介された時、同年配の女性が「管長は子どもを育てたことがないから、母親が子どもを育てることがどれだけ大変なことかわかっていない。自分の子ども一人に対しても慈しみの心を起こすのは大変なことなのです。だから、それをあらゆる人に向けるなんて無理です」と言ってきたそうです。それに対して横田管長は「確かに私は子どもを育てたことはありません。けれどね、日本人は昔からどんな人に対しても、我が子を思うように慈しみ、助けて来たんですよ」と答えられ、エルトゥールル号の話をされたそうです。
 横田管長は和歌山県出身です。エルトゥールル号は和歌山県沖で沈没したトルコの船です。
 明治23年、オスマントルコの軍艦エルトゥールル号が日本にやって来ました。親善使節団が明治天皇に謁見するためでした。その帰路、台風に遭って、エルトゥールル号は和歌山県串本町沖の大島の近くで座礁して沈没してしまいました。乗組員609人のうち助かったのが、69人でした。大島の村民達が荒れる海に飛び込み命がけで助けたのです。そして、自分達の着物や食べ物をすべて与えました。非常食も出しました。中には「この先どうしよう」と言った村人もいましたが、村長が「おてんとうさまがどうにかしてくださる。心配するな」と言ったそうです。この後、日本中から義援金が集まり、遺族に送られたのです。数カ月後には明治天皇の計らいで、最新鋭の軍艦で生存者達はイスタンブールに送り届けられました。
 この話から百年後にイラン・イラク戦争が起こりました。当時、日本人もたくさんイランに滞在していました。そして、ある日突然、当時のイラク大統領、サダム・フセインが、「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と宣言しました。命からがら外国人はみんな自国の特別機で脱出しました。しかし、日本人は逃げることができませんでした。当時の日本政府は素早い対応ができず、救援機を出せなかったのです。その結果、215人の日本人がテヘランの空港で孤立してしまいました。残された日本人は〝もう自分達は戦争に巻き込まれてしまう〟と絶望の中にいました。その時にトルコ航空の飛行機が2機飛んできました。トルコの人が乗るのかと思っていたら、「日本人は全員乗ってくれ」と言うのです。その時助けられた日本人はなぜ助けられたのかわかりませんでした。無事に帰ってきて、ようやくわかりました。エルトゥールル号の恩返しだったのです。トルコの人達は小学生の頃からエルトゥールル号の話を聞いて知っているそうです。トルコのオザル首相が「百年前の恩を返す時は今だ」と、日本人のために飛行機を2機飛ばしたのです。
 こんな話もあります。その時、オザル首相が「まず日本人全員を乗せて、乗れなかったトルコ人は陸路で帰ってくるように」という指示を出しました。それでもトルコ人から文句は出なかったそうです。飛行機はサダム・フセインの言うタイムリミットまでぎりぎりでした。後にトルコ人のパイロットがインタビューに「怖くなかったですか?」と聞かれ、「それは怖かったですよ。でも、日本人のためなら何度でも飛びますよ」と答えていました。胸を打たれる話です。エルトゥールル号の話は2015年に『海難1890』という映画になりました。

経験の有無にかかわらず、人の心を察して行動するのが慈悲の行いです。
 近代看護婦制度を確立したフローレンス・ナイチンゲールはクリミア戦争に従軍して「ランプを持った天使」と呼ばれました。ナイチンゲールはその後、看護学校を作り、若い看護婦さん達にまず言ったそうです。
「看護婦になったら、あなた達が経験したことのない悲しみや苦しみを理解し共感しなければいけません。それができないなら看護婦になる資格はありません」
 ナイチンゲールも慈悲の大切さを言っているのです。

内田美智子さんという助産師の方がおられます。内田さんは3000人以上の赤ちゃんの出産に立ち会っている方です。その内田さんの本にこんな話があります。
「お産というのは、『おめでた』ばかりではないんです。死産もあります。ある妊婦さんの話ですが、その妊婦さんは10カ月目に入って胎動がしなくなりました。診察の結果、胎児が亡くなっていることがわかりました。でも産まなければなりません。普通、お産のとき、私は『頑張ってね、もうすぐ元気な赤ちゃんに会えるからね』と励まします。しかし、死産の時にはかける言葉がありません。分娩室では泣かない赤ちゃんの代わりに、母親の泣き声が響き渡るんです」
 そのお母さんが分娩の後に「一晩だけでもこの子を抱いて寝たいです。いいですか」と尋ねました。内田さんは「いいですよ」と言って、真夜中にその病室を見回りに行きました。お母さんはベッドに座ってその赤ちゃんを抱いていました。「大丈夫ですか」と声をかけると、お母さんは「今、お乳をあげていたんですよ」と答えました。母親は乳首からにじみ出てくる乳を指につけて、子どもの口もとに移していました。その姿を見た内田さんは、そっと近づいて肩にやさしく手を置きました。内田さんは言われます。
「おっぱいをどんなにその子に飲ませたかったことか。〝泣かない子でもその子の母親でありたい〟と思うのが、母親なんです」
 ナイチンゲールは内田さんのような看護婦になることを求めたのだと思います。

 慈母観音は赤ちゃんを抱いて優しい顔をしておられます。なぜ慈母観音がこのようなお姿をしておられるかというと、昔は文字が読めない人も大勢いました。そういう人達に「仏さまの慈悲の心はこういうものだ」とわかりやすく教えるために、観音さまの姿をお像にしたのです。

 観音さまは仏教を代表する菩薩であり、古くから信仰対象として崇められてきました。各地のお寺に行きますと、宗派を問わず、水子観音、千手観音、馬頭観音、聖観音といった観音さまがお祀りされています。また観音霊場巡りというものも民間信仰としてとても盛んです。観音さまのお慈悲にすがろうとする人々の心が観音信仰を盛んにしてきたのだと思います。

最近こんなお話を知りました。ある禅宗のお寺の檀家の奥さんが、住職のところへ沈んだ様子でやって来ました。聞くと、この奥さんのご主人がずっと重い病気を患っていて、この度退院したのですが、治る見込みがないという理由から退院を促されたということだったのです。奥さんはずっと元気がなく、暗い表情でうつむいていました。そこで住職が『延命十句観音経』というお経を書いて「これを毎日唱えなさい。きっと良いことがありますよ」と言って渡しました。これは非常に短いお経です。

観世音南無仏与仏有因与仏有縁仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心
(観世音菩薩よ、仏に帰依します。我々は仏と因縁でつながっています。三宝の縁によって、常楽我浄を悟ります。朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます。観世音菩薩を念じる想いは我々の心より起こり、また観世音菩薩を念じ続けて心を離れません)

 江戸時代、白隠禅師が『延命十句観音経霊験記』の中で次のように記しています。
「此の経の霊験、老僧が身の上に於ても心も言葉も及ばざる有りがたき事ども数多たびこれあり」

それからご夫婦は毎日このお経を唱えられ、しばらくして、ご夫婦でお寺にお参りされ、その時は表情がとても晴れ晴れとしていたそうです。住職もそんな様子に安堵していました。しかし、それから半年ほどがたってご主人は亡くなってしまいました。住職は〝二人で一生懸命に『延命十句観音経』を唱えられていたが、奇跡は起きなかったか〟と申し訳ない気持ちになりました。
 ところが、お葬儀の後、奥さんがお寺に来られ、住職に感謝を述べられたそうです。
「亡くなる数日前に主人がこういうことを言いました。『お寺のご住職に教わったお経を唱えていれば、観音さまがどこからか現れて、きっと私を救ってくださるんだと思って一生懸命唱えていたけど、観音さまは現れなかった。でも気がついたんだよ。長い間ずっとそばにいて、私の世話をしてくれたお前が観音さまだったんだなぁ』。そう言って、ベッドの中で手を合わせてくれました。
 長年、主人の看病と介護をしてきて、時には“この人のために何でこんな目に遭わなければならないのか”と思う日もありました。けれど、ベッドの中で手を合わせる主人を見て、今までのそういう思いも疲れも全部取れていきました。私にとっては、主人が観音さまだったと気づきました。本当にありがたかったです。お互いに拝みあって最期を迎えることができたのは『延命十句観音経』のお陰です」
 夫婦がお互いに手を合わせられるような心になることが『観音経』の本当の功徳であり霊験であろうと思います。また、人がお互いを慈しみ合う心を持つことこそが仏さまの根本精神です。