法音寺の始祖・杉山辰子先生のお話をします。
笠松の名家であった杉山家も明治になり、だんだんと衰退していきました。杉山先生は〝家運をどうにかして挽回したい〟と思われ、16歳の時に、大垣で当時有名だった法華経の行者・鈴木きせ師のもとを訪ね、修行を始められました。そして三年後、19歳になられた杉山先生は、天眼通を得られました。
杉山先生があるお寺で瞑目合掌され、お題目を唱えておられると、目蓋の裏に位牌が浮かんできました。するとその位牌が牛馬、魚類の形にそれぞれ姿を変えたのです。ハッと目を開けるとその位牌が目の前にあります。先生は〝今見た位牌だ〟と思われました。中には人間に見えた位牌もありました。そのことを鈴木きせ師に話されると「それは天眼通です。その亡くなった位牌の人達がどうなっているかをあなたは見たのです」と言われました。〝今世で人間に生まれても、来世に人間に生まれるかどうかはわからない〟ということです。人間の姿に見えた人は、調べてみると、生前に善いことをした人達だったそうです。
鈴木きせ師は「人間に生まれることは、なかなかないことなのです。お釈迦さまが弟子の阿難尊者に『大地の砂の数は無数にあるけれども、人間に生まれることは、爪の上の砂程のことだ』と、説かれたように稀なことです。また人間に生まれたとしても、仏さまの教えを聞いて成仏できるというような人は、本当に稀な人なのです」と言われたそうです。
この話を聞いているうちに、杉山先生には新たな疑問が湧いてきました。それは〝この位牌の人達をご供養して救うにはどうすればよいだろうか。人間が本当に救われるには具体的にどうすればよいか〟ということでした。
この問題は鈴木きせ師に聞いても的確な答えは得られませんでした。〝法華経が最上の経典であることに疑いはないが、その法華経を日常生活の中でどのように応用すれば人間の苦悩解消に役立つか。その方法は自分で見つけなければならない〟と杉山先生は決意されました。そしてまた、より熱心に修行を続けられたのです。
明治25年、26歳の時、杉山先生は鈴木きせ師のもとを辞して、次に名古屋の本立寺住職・名倉順慶上人の指導のもと修行を続けられることになりました。
杉山先生の御一代の修行は、およそ三段階に分けることができます。鈴木きせ師のもとで修行された九年間が第一段階で、次の名倉順慶上人の指導を受けて修行された十年間が第二段階です。そして臥竜山から白川村にいたる十二年間の修行が第三段階です。
中でも本立寺における杉山先生の修行は断食、水行を織り混ぜたそれは厳しいものでした。
〝ただただ道を極めたい〟という思いで決行された百日の断食満願の日のことです。雪平鍋でお粥を炊き、その鍋の蓋を開けた時、金色のまばゆい玉のようなものが現れたと思うと、杉山先生は諸天善神に囲まれていました。この時、杉山先生は〝自分の修行は間違っていない〟と確信されたのです。
杉山先生は多年の修行の結果、ついに「三明六神通」を身につけられました。「三明」とは、過去世、現世、未来世の三世を見通す能力です。「六神通」は、天眼通・天耳通・他心通・宿命通・神足通・漏尽通と称される六種の神通力です。「三明六神通」をわかりやすく言いますと、〝三世を見通して世の人々を救う力〟です。
有名なお話を二つ紹介したいと思います。
一つ目は、西春の馬場上人のお話です。馬場上人は晩年に得度をされましたが、子どもの頃から杉山先生にご縁がありました。義理のお父さんである二村さんのお使いで、よく杉山先生のところにご供養を届けていました。20歳の時に、伝染病の腸チフスに罹りました。入院して45日目、病状は日々悪化し、ベッドの上でもがき苦しんで激しく暴れたため、ベッドから落ちて腸が破れてしまいました。大出血で意識を失い、呼吸も心臓も止まってしまい、医師が死亡宣告をしました。遺体にはすぐに死後処理が施されました。義父の二村さんは、それを見届け、直ちに杉山先生のところに行きました。昔の方は人が亡くなるとすぐに、杉山先生に〝故人を仏さまの世界に送ってください〟と、「無上道行き」のご供養をお願いしていました。二村さんもそうされたのです。
杉山先生は「20歳で亡くなったのかね。かわいそうなことをしたね」と手を合わせられました。すると杉山先生は、「馬場さんはまだ亡くなっておらんよ。私が功徳を送るから、すぐに行って、お題目を唱えて神通をかけてあげなさい。そうすれば間違いなく生き返るよ」と言われたのです。二村さんは一目散に帰って、火葬を待つばかりの状態の馬場さんの体に杉山先生の言葉を信じて、懸命にお題目を唱えながら神通をかけました。一説によると五時間、六時間されていたと聞きます。そしてついに馬場さんは息を吹き返されたのです。晩年、縁あって得度され、90歳過ぎまで元気良くご法話をされ、天寿を全うされました。
もう一つは、東京支部での子宮外妊娠のお話です。これは法音寺の胎教の始まりでもあります。杉山先生は〝帝都・東京で三徳の教えを弘めたい〟と考えられ、大正5年、上野桜木町に東京支部を作られました。支部ができてすぐの頃に、村上松次郎という方が相談に来られました。村上さんは事業に失敗して名古屋から上京して来たのですが、加えて奥さんが身重で、しかも子宮外妊娠のため医師から手術を勧められていました。また、「早くしないと母子ともに助からない」とも言われていました。しかし手術を受けるお金もなく、借りるあてもない村上さんは困り果てて相談にこられたのでした。
杉山先生は「妙法の〝妙〟という字は〝よみがえる〟と解することができます。難産を安産にするには妙法を信じて実行することです。まず難産の原因を知る必要があります。難産で苦しんだり死んだりすることは世間によくあることですが、もちろんこれは偶然に起こるものではありません。すべて前世からの悪因のためです。それは、宿れる子が親の仇敵ともいうべき魂を持っている故に起こるものです」と言われ、しばらく瞑目合掌されると、おもむろに口を開かれました。そして、「妙法はありがたいものです。その仇敵の魂を成仏するよう追善をなして、その魂を去らしめ有徳の魂と入れ替えることができると思います。妙法によって蘇らせる方法をとられてはいかがですか」と言われたのです。
村上さん夫妻は半信半疑でしたが、ともかく杉山先生におまかせすることにしました。杉山先生はまず、今宿っている子の魂を成仏させるために、白米十俵を貧しい人々に施され、さらに法華経の書かれた書物を人々に施され、両親には一心に妙法を唱えることを勧められました。月満ちてこの功徳は顕れ、村上さんの奥さんは安産で男の子を生むことができたのです。九死に一生を得て、村上さん夫妻は涙を流して感謝し、妙法広宣流布のお手伝いを固く誓われました。これが〝妙不可思議な魂の入れ替え〟となる、胎教の始まりです。
三明六神通のような偉大な力は、我々凡夫にはありません。しかし、杉山先生は言われます。
「今この時から善の種まきをするのです。行住坐臥お題目を唱えるのです。そして三徳の実行です。精神的・物質的に功徳を重ねて行くのです。そうすれば何も心配ありません」
実際に杉山先生は、絶えず右手に数珠を持って、その数珠を爪繰りながらお題目を唱え続けておられました。
千種の中道に本部があった頃のことです。
住み込みで修養していた若者が、ある夜ふと目をさますと、お題目を唱える声が聞こえてきました。よく聞いてみると杉山先生のお声でした。午前3時でした。
先輩の信者さんに尋ねると、深夜に杉山先生がお題目を唱えられるのは珍しいことではないとのことでした。
後日、その若者が杉山先生に深夜のお題目の理由をお尋ねすると、その答えは「お題目の貯金」でした。
杉山先生のお話によると、「信者さんの大きな罪障を消滅する時には、何万というたくさんのお題目が必要で、昼夜の別なく根気よくお題目を唱え続けて功徳を蓄積しておかないと、肝心な時に間に合わない」ということでした。また次のようにも言われたそうです。
「このお題目の蓄積を怠ると、私は諸天から催促され、叱られるのです。怠けているとカチンカチンと、諸天善神に頭を叩かれるのです。それはかなり痛いもので、骨身にこたえます」
大正10年頃から、杉山先生の活動がマスコミに取り上げられるようになり、杉山先生は『女日蓮』と呼ばれるようになりました。当時の名古屋新聞は『女日蓮=妙法華経に生きんとする辰子』と報じ、読売新聞は『女日蓮の施米』と報じています。また、同紙では『婦人界消息』というコーナーで、『杉山辰子(仏教感化救済会会長)目下名古屋東区の本部に滞在中、近く入京の予定』と報じられるほどでした。
NHKの名古屋放送局はちょうどその頃に開局されました。相当な有名人であった杉山先生にラジオの生放送の講演依頼が数回にわたってありました。ある時、予定よりも早くお話が終了しました。局員があわてていると杉山先生は少しも動じず、「さあ皆さん、一緒にお題目を唱えましょう」と呼び掛けられ、最後までお題目を唱え続けられたということです。
「慈悲・至誠・堪忍」はとてもわかりやすい教えです。それ故、世の人々の中にはその深いところがわからない方もあります。
金峯山寺の大峯千日回峰行を成満された塩沼亮潤大阿闍梨という方がおられます。塩沼阿闍梨は、比叡山の千日回峰行を二度成満された酒井雄哉大阿闍梨をテレビで子どもの頃に見て、〝自分も将来お坊さんになってあの修行がしたい〟と思われたそうです。いろいろ調べてみると、比叡山の千日回峰行よりも、吉野の金峯山寺の千日回峰行の方がより過酷だと知りました。〝それを知ったからには、そちらを選ばなければいけない〟と思い、金峯山寺の門を叩かれました。どちらも、筆舌に尽くしがたい難行ですが、比叡山の千日回峰行は過去に大勢の方が達成しておられます。一方、金峯山寺の千日回峰行は千三百年の歴史の中で塩沼阿闍梨が二人目です。
塩沼阿闍梨は、この過酷な行をするにあたって、毎日日記をつけられました。そして999日目を終えた時に書かれた言葉が「人生生涯小僧のこころ」です。〝行を終えたら、吉野山に小僧として入山した日と同じ気持ちに立ち戻り人生を生きよう〟と決心されたのです。
修行を終えられた塩沼阿闍梨は言われています。
「この修行でわかったことは、〝私達は生きているのではなく、生かされている〟ということです。そして〝すべてに感謝しなければいけない〟ということです」
「むずかしい宗教哲学や宗教的理論は、あまり必要ないと思います。あってもいいし、研究してもいいけれど、頭でっかちになってそれを議論しすぎて互いに争うことは、短い人生、非常にもったいないことです。膝をつきあわせた人と人が心を通い合わせ、笑顔で相手を思いやる。それが一番の幸せではないでしょうか。大事なことは人に施すことです。誰にでもできる施しが二つあります。一つは、人に優しい言葉をかけてあげることです。もう一つは人に優しい笑顔で接することです。優しい笑顔で言葉をかけられた人は、心が潤い、それが生きる光となるのです」
杉山先生も多年に及ぶご修行の後に「人生の肝心は、慈悲・至誠・堪忍ですよ」とおっしゃいました。それを教えていただける私達は幸せです。ぜひ行住坐臥のお題目と日々の三徳の実行を続けていただきたいと思います。