「中道」と「寛容さ」について

掲載日:2021年7月1日(木)

皆さまご存じのようにお釈迦さまは王子としての豪奢な生活を捨てて出家をされました。ある日、宮殿を出た時、老人と病人と死者を目の当たりにして世の苦や無常を感じられました。また別の時には修行者の姿を見て、〝修行生活によって苦や無常から逃れられるのではないか〟と考えられ、29歳の時に出家されました。そして当時一番の大国であったマガダ国の王舎城に行かれました。その近郊のウルヴェーラーには苦行林と呼ばれる難行苦行を志す人間ばかりが集まる場所がありました。お釈迦さまはそこで六年間修行をされたのです。

原始仏典の中に、お釈迦さまは最初に「断食修行」をされたとあります。少量の豆の汁以外は何も口にしないで過ごすという修行です。その体験をお釈迦さまは語っておられます。

「そのわずかな食べ物のために私の手足は蔓の節のように、私の尻はラクダの脚のようにやせ細り、肋骨は廃棄された垂木が折れ曲がっているようになった。私が腹の皮にさわろうとすると背骨に指があたり、背骨にさわろうとすると腹の皮に指があたった。私の腹の皮は背中の裏側に密着するほどになった。それでも私がそのわずかな豆の汁のせいで大小便をしようとすると、その場で前かがみになり倒れてしまった」
 他の修行についても書いてあります。「一日中、立ったままで暮らす修行」。この「一日中」というのは起きている間だけではなく、二十四時間です。寝る時も何かに寄りかかって立ったまま寝るのです。他にも「動物のように這ったりしゃがんだりしたままの姿勢で歩き回る修行」、「一切の呼吸を止めて過ごす修行」。この時のことは「呼吸をすべて止めた時には、私の頭にはすさまじい頭痛が起きた」と語っておられます。
 また「針のむしろに臥す修行」もされたそうです。「針のむしろ」は譬えで使いますが、本当に針のむしろに寝る修行をされたのです。

「遠離行」という修行もされました。お釈迦さまは「私は森の中に分け入って暮らした。そこへ牛飼いや木こりや薪を取る者が現れると、彼らが私を見ないように、私も彼らを見ないように林から林へ、草むらから草むらへと逃げて行ったものだ。それが遠離行だったからだ。ある時、近くの牛舎で牛達と牛飼いがいなくなるのを見計らって、私は四つん這いになって忍び込んだ。そこにある牛糞を食べたのだ。自分の体から糞尿が出る間は、その糞尿も食べた。森の中の修行はまだ心の平静を獲得していない者にとっては身の毛がよだつ程恐ろしいものであった」と回想されています。漆黒の闇の底に独り取り残される恐怖、それに加えてアブやヘビ、ヒョウや虎のような野生動物、また山賊にいつ襲われるかわからないという恐怖があったからです。
 その他にも「墓場で過ごす修行」というものもありました。墓場といっても我々の想像する墓場ではありません。骸骨もあれば、腐乱した死体もある死体捨て場です。これも苦行者にとって重要な修行でした。

「私は墓場に入り、散らばっている骸骨を枕にして眠りを取っていた。するとそれを見つけた牛飼いの子ども達が近づき、唾を吐いたり、放尿したり、汚物を投げたり、耳の穴に棒を差し込んだりした」
 お釈迦さまはそういう苦行に耐えながら六年間を過ごされました。そして、ある日その苦行をピタリと止められます。
 苦行林を出て、尼連禅河に入り、長年の修行の汚れを洗い落とすために沐浴をされました。そして、その川のほとりで休んでおられる時に、スジャータという娘が乳粥をご供養しました。その供養によって精気を取り戻され、その後ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想をして、8日目に悟りを開かれたのです。その悟りの内容が『中道』です。快楽の生活もいけないけれど、極端な苦行もいけない。真理は極端に偏らない『中道』にこそある。快楽の生活も苦行の生活もともに執着である。諸々の執着から離れたところに悟りがあるということです。

提婆達多は「仏教界のユダ」とも言われ、お釈迦さまを殺そうとしたことで有名です。意外にも提婆達多はお釈迦さまに「もっと修行僧達を厳しく律するべきだ」と進言した人物なのです。『律蔵』の中にあるのですが、「五事」、すなわち五つの禁止事項を修行僧達にしっかりと守らせるべきだと言ったのです。
 一、願わくば修行者は、命の尽きるまで林住すべし。もし村邑に入らば罪とせられん。
 二、願わくば修行者は、命の尽きるまで乞食すべし。もし請食(招待された食事)を受けなば罪とせられん。
 三、願わくば修行者は、命の尽きるまで糞掃衣(ぼろ切れで作った衣)を着けるべし。もし居士衣(資産者から布施された衣)を受けなば罪とせられん。
 四、願わくば修行者は、命の尽きるまで樹下に座すべし。もし屋内に到らば罪とせられん。
 五、願わくば修行者は、命の尽きるまで魚、肉を食わざるべし。もし魚、肉を食わば罪とせられん。

この提婆達多の主張に対して、お釈迦さまは言われました。
「やめなさい、提婆達多よ。修行者が望むなら、いつだって林住してもよいし、また村邑で修行してもよい。それを望むなら、常に乞食をしてもよいし、招待を受けてもよい。それを望むなら、常に糞掃衣を着ていてもよいし、また望むなら居士衣を着てもよい。提婆達多よ、私は(雨季の四カ月間を除いた)八カ月の間、樹下で坐臥するのを許しているし、見・聞・疑の三肉以外の清浄な魚、肉を食すことを許している」
「見・聞・疑の三肉」というのは、その動物が殺されるのを見た時、あなたのためにその動物を殺しましたと聞かされた時、自分のためにその動物が殺された疑いがある時、この三種の肉は不浄の肉として比丘は食べてはならないとされていたのです。それ以外の肉は清浄であるから食べてもよいとお釈迦さまは言われたのです。
 お釈迦さまは非常に寛容な方であられたと私は思うのです。

 明治時代に釈宗演という禅宗の傑僧がいました。アメリカを中心に全世界に禅が広まる元を作った人です。釈宗演は34歳で鎌倉の円覚寺の管長になった人ですが、この人に植村宗光という弟子がいました。帝国大学卒業後、釈宗演のもとで出家し、厳しい修行に耐えて、釈宗演が最も期待していた俊英の弟子でした。しかしながら、宗光は日露戦争に出征し、亡くなってしまいました。釈宗演はアメリカ布教中に弟子の戦死の報に接し、大変悲しみました。
 宗光は日露戦争に出征して、果敢に戦ったのですが、敵に捕らわれ、捕虜になりました。そして、〝敵に捕まっているのは恥だ〟と食を絶って餓死したというのです。それを聞いた釈宗演は、「あんなに苦労をさせねばよかった。あんなに辛い修行をさせねばよかった。ああ、あれは〝虎になる修行〟はできたが、〝猫になる修行〟ができなかった」と涙をこぼしたといいます。〝勇猛果敢に死をも辞せず、虎のように戦うことは良いが、やはり人間は生き抜かなければいけない。虎にもなり、時には猫にもならなければいけない〟というのが釈宗演の思いだったようです。
 この〝虎になり、猫となる〟というのがお釈迦さまの言われる執着を離れた『中道』に近いものだと思います。
 私達が生きて行く上で『中道』はとても大切だと思います。日常の中での『中道』として、私は『寛容』の心こそ持つべきものだと思います。

江戸時代、備前岡山に池田光政という藩主がいました。名君として名高く、熊沢蕃山という陽明学者を起用して善政を敷いたことで有名です。
 この光政が鳥取藩主の時、参勤交代の帰路、名所司代として有名な板倉勝重の教えを請うために京都に立ち寄りました。この時、光政は14歳でした。
 光政が勝重に「一国の政治というものは、一体どのように運営していったらよいものでしょうか。どうか一つ、教えていただきたい」と言うと、勝重は「私は京都の町人相手に、些細ないさかい事を裁く毎日です。国の政治などという大事には、残念ながら少しも知識は持っておりません」と答えました。それを聞いても光政はあきらめず、さらに「いやいや、京都の所司代といえば御所との因縁も深く、名誉ある職柄であり、他の町奉行職などとは比較になりません。あなたの話される言葉のうちには、必ずや参考になることがあるはずです。どうか教えていただきたい」と重ねて熱心に願い出たのです。

そこで勝重は言いました。

「ご参考になるかどうかはわかりませんが、ともかく私の考えていることを申し上げましょう。私は民を治めるには、四角い重箱に味噌を詰め、それを丸い杓子で掬い取る如きにすればよいと常日頃考えております」
「なるほど。がしかし、それでは重箱の隅にある味噌が取れないのではないでしょうか」と光政が言うと、勝重はすぐに答えました。
「殿はお若いのに心底から国政を心配しておられます。だからこそ国の隅々まできちんと統治しなければならないと考えがちなものですが、それでは国中が窒息してしまいます。重箱の隅は捨ておく程の寛大さが必要かと存じます。ゆるやかで度量が広くなければ、人心を得ることはできないと思います」

中国に『法三章』という有名な故事があります。始皇帝が築いた秦王朝の末期、この動乱の時期に二人の男が頭角を現しました。有名な項羽と劉邦です。
 司馬遼太郎さんが書かれた『項羽と劉邦』を読むと、この二人の行動から天下を制する人望について考えさせられます。それをよく表しているのがこの『法三章』の話です。

秦の都、咸陽に攻め入ったのが劉邦軍です。その時に咸陽の城外に始皇帝の孫の子嬰が白い装束で、殺されるのを覚悟して待っていました。「早く殺してしまえ」という者がいる中、劉邦は「わしがこの咸陽の攻略を命ぜられたのは、わしならば敵を寛大に扱うと思われたからだ。それに敵はすでに降伏しておる。それを殺してもろくな結果にはならぬ」と言って子嬰を許しました。そして、劉邦は大軍を率いて咸陽の城内に入って行きます。咸陽は秦の都なので、宮殿の中にはあふれる財宝があり、また後宮には5千人の美女がいたといいます。劉邦の参謀は「この咸陽城内に軍隊をとどめては略奪、暴行が続発して大変なことになります。すぐに城外に出た方がいい」と進言しました。その言葉をすぐに聞き入れ、劉邦は財宝と美女であふれた咸陽の宮殿を出て、城外に本営を築きました。そして、土地の長老や有力者を集めて『法三章』の布告をしたのです。
「諸兄は長い間、秦の苛酷な法に苦しめられてきた。国政を批判すれば一族皆殺しにされ、立ち話を交わしてさえ、盛り場で首を斬られるほどだ。そこで、私は諸兄に約束しよう。法は三章だけとする。すなわち、人を殺したものは死刑。人を傷つけた者、盗みを働いたものは処罰する。その他の秦の定めた法はすべて廃止する。官民ともに、これからは安心して暮らすがよい。そもそも、私がこの地にやってきた目的は、諸兄にとっての害を取り除くためである。決して乱暴を働く意図はない。くれぐれも安堵してもらいたい」
この後、劉邦は部下に命じ、秦の役人を同道して各地をまわらせ、布告の趣旨を周知徹底させました。秦の人々は歓呼して迎え、われ先に劉邦軍の兵士をもてなそうとしました。しかし、劉邦は「兵糧は充分にあるゆえ、気遣いは無用に願いたい」と言って辞退しました。これによって劉邦の評判は一段と高まったといいます。
『法三章』の布告は、劉邦の寛容さを際立たせ、後の項羽との対決の中で劉邦にとても有利に作用したのです。

最後に中国の古い書物『菜根譚』の中にある言葉を紹介します。
「人の小過を責めず、人の陰私を発かず、人の旧悪を念わず。三者は以って徳を養うべく、また以って害に遠ざかるべし」(人の小さな過失をとがめない。人の隠し事を暴かない。人の古傷は忘れてやる。この三つのことを心掛ければ、自分の人格を高めるばかりでなく、人の恨みを買うこともない)
 寛容な心、行いはその人を一段上の人物へと引き上げていくのです。