苦難によって人間は成長する

掲載日:2021年1月1日(金)

ご存じの方も多いと思いますが、アメリカのトランプ大統領のメラニア夫人は3人目の奥さんです。

 次期大統領に決まっているバイデンさんもジル夫人とは再婚です。バイデンさんは30歳という若さで上院議員に当選しました。しかし、上院議員当選の直後に最初の奥さんと娘さんを交通事故で亡くしています(現在の娘さんはジル夫人との間に生まれたアシュリーさんです)。この時、息子さん2人も瀕死の重傷を負っています。バイデンさんは息子さん達の看病を理由に議員職を辞退しようとしますが、周りの説得を受け議員に留まります。そして、45歳の時にまた試練が訪れます。脳動脈瘤の破裂により一時、危篤状態に陥ったのです。この時は懸命なリハビリによって7カ月で公務に復帰していますが、まだ試練は続くのです。よく次男のハンター・バイデンさんが話題になりますが、長男の話が出てきません。実は長男は亡くなっているのです。今から5年前、バイデンさんの長男はデラウェア州の司法長官をしていました。バイデンさんの後継として期待され、とても優秀な人でしたが、突然の脳腫瘍で亡くなってしまいました。

バイデンさんの人生は大変な試練の連続ですが、大統領当選の暁には、どのようにしてこれらの苦難を乗り越えられたかをぜひ語っていただきたいと思います。

オーストリアの精神科医で、「ロゴテラピー」の創始者として世界的に有名なビクトール・フランクルは、ヒトラーが作ったこの世の地獄・アウシュビッツ強制収容所から生還した人です。収容所の中で多くの人を励まし、助け、自らも生還し、残りの生涯を人の心を救うために尽くした偉大な人物です。

 アウシュビッツから解放されたフランクルを待ち受けていたのは、妻ティリーの死の知らせでした。彼女はアウシュビッツからベルゲン・ベルゼンに移され、そこのガス室で殺されたのです。25歳という若さでした。また弟は、強制労働の末に鉱山で亡くなっていました。両親も亡くなり結局、フランクルは一人の妹を残して、家族全員を失ってしまったのです。
 ウィーンに戻ったフランクルは、友人のもとを訪れ、泣きながら語ったそうです。

「こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これ程の試練を受けるのには、何か意味があるはずだ。私には感じられるんだ。あたかも何かが私を待っている。何かが私に期待している。何かが私から求めている。私は何かのために運命づけられているとしか言いようがないんだ」

 これはフランクル自身に対する「ロゴテラピー(人が自らの生の意味を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法)」であったのです。後にフランクルは言っています。

「絶望とは、もうすぐ新しい自分と新しい希望が生まれてくるという前兆である」

 私はこの言葉を知った時、フランクルという人は真の楽観主義者だと感じました。

 フランクルの有名な言葉があります。フランクルは相談者にいつも言っていたそうです。フランクルが亡くなった後も後妻のエリーさんが「主人がいつもこう言っていました」と言って人を励ましたそうです。

「人間誰しも心にアウシュビッツ(苦悩)を持っている。しかし、あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望はしていない。あなたを待っている誰かや何かがある限り、あなたは生き延びることができるし、自己実現できる」

 フランクルは、〝人間は誰しも苦しみを持っている。しかし、必ず生きている限りあなたの役目がこの世にあるはずだ。必ず人生(天)はあなたに役目を与えている。その役目を果たそうではないか。人生を意味あるもの、意義あるものにしようではないか〟と言っているのです。

江戸時代に杉山和一という検校がいました。検校とは、盲人の最高官位で、鍼灸を行い、また筝曲の演奏などもしました。和一は、若き日、その不器用さゆえに鍼灸の師匠に破門されてしまいました。社会保障も何もない時代のこと、和一は絶望のどん底に落とされました。しかし、和一はあきらめませんでした。どうしたら上手く鍼を刺せるかをひたすら考え続けました。そして、あきらめかけて、故郷へ帰る道すがら、天が手を差しのべたのです。和一が石につまずいて転んだ時です。痛みをこらえながら、よろよろと起き上がろうとしたその瞬間、和一の手にたまたま触れたのが、道端に落ちていた藁しべと松葉だったのです。和一はひらめきました。

〝そうか、藁しべのような筒の中に鍼(松葉)を通せば上手く刺せる〟

 和一は試行錯誤し、後に世界的に普及し、今日でも受け継がれている「管鍼法」を開発したのです。

 その後、和一は当時の将軍・徳川綱吉のお抱え鍼灸師になり、杉山検校と呼ばれるまでになりました。それだけではありません。盲人のための鍼灸学校を創ったのです。目の不自由な多くの人がこれによって救われました。1680年頃のことです。ヨーロッパで最初に視覚障がい者の教育施設ができたのはフランスですが、それよりも百年も早かったのです。

 杉山和一も一度は人生に絶望しかけたと思います。しかし、人生は、天は、彼に絶望していなかったのです。

先日、ある講演会に参加してきました。講師は曹洞宗師家会会長の青山俊董法尼です。本当は春に行われる予定でしたが、青山法尼がご病気になり延期になっていました。一時間四十分の公演でしたが、あっという間でした。その中で大変印象に残ったお話を紹介します。

阿含経の中に〝この世の中には四種類の人がいる〟と説かれています。闇から闇へ行く人、闇から光へ行く人、光から闇へ行く人、光から光へ行く人です。お釈迦さまは人生の幸、不幸を光と闇という言葉に置きかえられたのです。講演では「闇から光へ行く人」のお話でした。

青山法尼が京都に講演に行かれた時に乗ったタクシーの運転手さんが「ご出家さんですね。私の話を聞いていただいてもよろしいですか」と言われたそうです。青山法尼が「どうぞ」と促されると、運転手さんは自らの生い立ちを語りました。
「実は私が高校3年生の時に両親が突然、一緒に亡くなったのです。町内会でフグを食べに行った次の日の朝、いつもなら弁当を作ってくれている母が、いつまでたっても起きてこない。おかしいと思って両親の部屋を見に行くと二人ともフグの毒で死んでいたのです。

その部屋はフグの毒でさんざん苦しんだ跡がありました。すぐに親戚が駆けつけてくれて、葬式は出してくれたけれども、面倒は見てもらえませんでした。借金こそ無かったけれど、貯えは全くありませんでした。私に残されたのは13歳年下の5歳の妹だけでした。高校3年生と5歳では家賃が取れないということで家主さんに家を追い出されてしまいました。私は5歳の妹と本当に身の回りの物だけを持って、六畳一間の安アパートに入りました。そこから、私は両親に代わって妹を育てるために無我夢中で働きました。朝は新聞配達、昼間は勤め、夜はアルバイトと必死に働いて、22、23歳の時には、安いアパートを買う程のお金ができました。

 その間、私は働くことしか考えませんでしたから、洗濯も炊事も掃除も何もしませんでした。妹が全部やってくれました。以前『おしん』というNHKのドラマがありました。私の妹もおしんのように働いたのです。妹に勉強机を買ってやりたかったけれど、六畳一間では食卓と勉強机の二つは置けませんからね。だから妹は食卓を勉強机にして勉強したのです。

狭い家で育ったから妹は整理の名人になりました。今は大きなお家にご縁をいただいて、いつもきれいに整理整頓をしております。考えてみましたら私なんかは、もし両親が元気で生きていてくれたら今頃、暴走族か何かになってろくな人間にはなっていなかったと思います。もし両親が一緒に死んでも、お金を残していてくれたら、今の私はなかったと思います。幼い妹がいなかったら、寂しくてグレていたと思います。両親がいない、お金がない、幼い妹がいる。それで私は本気にならざるを得ませんでした。私を本気にしてくれ、一人前の大人にしてくれ、男にしてくれたのは、両親が一緒に死んでくれたお陰、お金を残してくれなかったお陰、家主が追い出してくれたお陰、幼い妹を付けてくれたお陰と今は感謝しております。お陰で本気になれました。男になれました。大人になれました。毎日、感謝の線香を両親の位牌にあげております。何も言うことはありません。けれども、妹が良いご縁をいただいて、花嫁衣裳を着た時だけは泣けました。両親に見せたかった。私は今、一つだけ願いがあります。自分の子どもが一人前になるまでは命をいただきたい」

 このような話を青山法尼は聞かれ、「どんなお方の話よりもすばらしい話をありがとうございました」と言ってタクシーを降りられたそうです。

 青山法尼が言われていました。

「普通に考えたら闇としか思えないことを、〝お陰で一人前になれました。本気になれました。男になれました〟と全部プラスに切り替える。まさに闇から光へというお手本です」

 人生は苦悩を乗り越え、悲しみを乗り越えて行くところに真の幸福、また悟りというものがあるのです。

日蓮聖人は「道心は病によりておこり候」と仰っています。如来寿量品には「常懐悲感 心遂醒悟」(常に悲感を懐いて心遂に醒悟す)とあります。苦しみ悲しみによって人間は磨かれていくのです。

今回このようなお話をしようと思ったきっかけは、私が毎月購読している『致知』という雑誌に、「苦難にまさる教師なし」という特集があったからです。編集長の総リードの中の言葉を紹介します。

まず、昭和天皇・皇后両陛下に仏教を講義した鈴木大拙の言葉です。
「人生はどう論じようとも、結局苦しい闘争である。だが、苦しめば苦しむ程、あなたの人格は深くなり、そして、人格の深まりとともに、あなたはより深く人生の秘密を読み取るようになる」

続いて、イギリスの名宰相、ディズレーリの言葉です。
「いかなる教育も、逆境から学べるものには敵わない」

 次は終戦の詔勅の起草にかかわった安岡正篤氏の言葉です。
「人間は苦悩によって練られていくのでありまして、肉体的にも精神的にも人間が成長していくために苦悩は欠くことのできない条件であります」

 さらに「全一学」を提唱した教育者、森信三氏の言葉です。
「逆境は神の恩寵的支援なり」

 最後は京都大学第16代総長、平澤興氏の言葉です。
「成長するということは苦難が喜びであると思えるようになることです。苦難を越える、それが喜びです」

 現在、コロナ禍で日本だけではなく、世界中の人々が苦難に遭っています。しかし、これを乗り越えた先には光明にあふれた世界が待っているのではないかと思います。14世紀、ヨーロッパではペストが流行り、ヨーロッパの人口の3分の1が亡くなりました。しかし、その後にはルネサンス(再生)が起こりました。〝今回のコロナが去った後にも、新たなすばらしい世界がある〟と信じて生きてゆきたいものです。