心を蘇らせる音楽の力

掲載日:2020年3月1日(日)

御開山上人のご法話の中に次のようなお話があります。
「(福岡から)名古屋に帰りましたら、これからは親のない子どもを育てろ、となったわけであります。親のない子を育てるのも、いろんな子をやったわけであります。昭和8年には、子どもを虐待してはならないという法律ができたわけでありますが、その時、サーカスから来た子どもが13名ありました。それから、その法律によって送られてきた子の中には、『継子いじめ』というのがあって、体中に36カ所も傷のある子がおりました。歯も半分くらいが、一本ずつ一本ずつ折られてしまった3歳くらいの子でした。手足を毎日叩かれて、黒ジミになってしまっていた子もいました。このご宝前にはそういう子はおりませんがね、そういう子がおるもんですよ、世の中には。そういう子どもが本当にたくさん送られてきました。終戦直後には浮浪児を120名預かりました。そのようにしてようやく本当の法華経の心を知ることができました。杉山先生の言われたことに間違いなかったことが知られ、本当にありがたく思っている次第であります」

浮浪児を120名預かるというのは、終戦直後の食べる物のない時ですから本当に大変だったと思います。

後に日本福祉大学の学監を務められた堀要先生が御開山上人の思い出として次のように語っておられます。

「一つだけ忘れられないことがある。その当時、いやな言葉であったが、いわゆる浮浪児狩りが、名古屋駅で何回も行われていた。修学先生は実によく子どものことがわかる人であった。だから新たに収容された子ども達は、明るくて、よく居着くのであるが、修学先生には、それなりの鋭い洞察と配慮がなされていた。収容された子ども達は、しばらくは落ち着いているが、そのうち何となく、そわつきが見えてくる。そういう子どもを、すかさず伴って名古屋駅に出かけて、人通りのよく見えるところで、子どもと腰を下ろして通行人を見物する。その通行人の中には、もちろん浮浪児の姿も見える。しばらく座りこんだ後に、見つけた浮浪児の姿を修学先生は、子どもに指し示して『どうだね、もう一度あの子らの仲間に戻るかね』と話しかける。反応は子どもによっていろいろであるが、しばらくして、『もう帰ろうか』と声をかけると、子どもはすっかり元気になって、喜び勇んで一緒に帰ってくる。それから本格的に落ち着くようになると話してくださった。修学先生と子ども達との心のふれあい、心の通じあいのすばらしさ、これは人間の心の美しさそのもののように私の胸に染みこんでしまったのである」

御開山上人は子ども達の心を癒すために、また心を明るくするためにいろいろと手を尽くされました。月に一度の誕生会をはじめ、紙芝居、映画上映、運動会や野球大会などを開催されたのがそれです。そんな時、あるグループが慰問に来て、演奏会を開いてくれたことがありました。子ども達の中に洋子ちゃんという感情をまったく表さない子がいました。戦争で親を失った悲しみの中で感情を失ってしまっている子でした。他の子ども達が次第に心を開き、みんなの中にとけ込んでいくのに、一人だけいつまでも知らん顔で、言葉をかけても冷たい視線が返ってくるだけでした。どうすればよいのか、周囲の者は思案に暮れていました。そんな洋子ちゃんが演奏会もたけなわの頃、隣に座っていた御開山上人の腕にすがりついてきました。「どうしたのかね」と尋ねられると、「わたし、お父さんと村祭りに行った時のことを思い出したの」と答えた洋子ちゃんの頬には、いく筋もの涙が流れていました。その後、洋子ちゃんはだんだんと穏やかな良い子になったそうです。それ以来、御開山上人は知り合いを駆け回っていろいろな楽器を集められました。
 御開山上人は琵琶の名手で、若い頃には楽団でクラリネットの演奏もしておられました。その経験をいかして、子ども達に楽器を教え、音楽会を開いたりされました。時にはご自分で作詞作曲をされ、寮の子ども達のために寮歌を2曲作っておられます。

音楽は本当に老若男女を問わず、人を癒すものです。

音楽療法士の高本恭子さんという方のお話です。高本さんはインターン(病院実習)時代、ある病院の内科に勤務していました。そこには72歳の女性の認知症の患者さんが入院していました。〝どうにかしてこの人をよくしてあげたい〟と思い、高本さんはその女性を日々観察していました。ある日、病院のホールで窓からきれいな夕焼けが見えました。その真っ赤な夕焼けをどこか懐かしそうに彼女が見つめていました。〝もしかして…〟と思ってオルガンで『夕焼け小焼け』を演奏しました。すると彼女が口をパクパク動かして歌おうとします。それから高本さんは何度も何度も繰り返し『夕焼け小焼け』を演奏しました。すると一時間くらい経って女性が一番を全部歌いました。一時間半程経つと二番も歌えるようになりました。
 彼女の息子さんが毎日仕事帰りに会いに来ていました。しかし息子さんのことはわかっていませんでした。彼女はいつも「どこのどちらさまかは知りませんが、ご親切にありがとうございます」と言っていました。『夕焼け小焼け』を二番まで歌ったその日、息子さんが「母ちゃん良かったなあ。今日は先生に歌を教えてもらったそうやなあ」と言うと、「あら、よっちゃん。来てくれたん」と。驚いたのは息子さんです。「母ちゃん、俺の名前を思い出してくれたんか」と言うと、彼女はあたりまえのような顔をして「そうや、あんたはよしおやでぇ」と言ったのです。
次の日から高本さんは、彼女が若い頃から今までに歌ったと思われる歌をキーボードやCDで聴かせていきました。すると、一カ月くらいで、自分の生年月日、住所、家族構成などほとんどのことを思い出してはっきりしゃべるようになりました。日常生活にまったく支障がなくなるまで症状が改善したのです。それから一週間程で彼女は退院したそうです。

もう一人、老人性うつ病と診断されて入院してきた96歳の女性の話です。この人はどんな風に声をかけても反応がありませんでした。薬を服用してもまったく改善の余地が見られませんでした。そこで音楽療法を行いました。しかし、彼女が若かった頃に唄ったと思われる歌を聴かせても何の反応もありません。途方にくれながら高本さんが彼女のカルテを見ていると彼女には5人の子どもがいて、その内、長男・次男・四男が戦争で亡くなっていることがわかりました。〝もしかしてこの歌だったら〟と思って聴かせたのが、戦地から引揚船で帰ってくる息子を岸壁で待ち続ける母親を歌った『岸壁の母』です。その歌を聴くと、今まで何の反応も示さなかった彼女が体を震わせながら涙を流し続けたのです。長い間泣き続け、絞り出すような声で「ありがとうございました」と彼女は言ったのです。
 それから四十日間、『岸壁の母』を聴かせ続けました。そして四十一日目のことです。彼女は泣くのを止めて大きなため息をつき「ああ、お腹が空いた」と言いました。それまでは看護師さんが食事を食べさせていましたが、その日は自分から食べたのです。その十日後、今度は「お風呂に入りましょうか」と言うと「うん」と返事をして、自分からベッドを降りてお風呂に向かったのです。
 一年六カ月が経ち、彼女が「年寄りのひとりごとを聞いてくれますか」と言いました。高本さんが「もちろんいいですよ」と言うと、彼女は次のように話しました。

「終戦になる一カ月前に長男が遺骨で帰ってきました。終戦の一週間前には次男が遺骨で帰ってきました。二人とも白い風呂敷に包まれた小さな箱に入っていました。風呂敷をほどいて箱の中を見ると、息子の腕の付け根の骨が収まっていました。日本は戦争に負け、何もかもなくなりました。そんな日本にも正月は来るんですね。正月を前に仏さんの掃除をしていたら、四男が帰ってきました。四男は18歳で日の丸飛行隊に志願し、帰りの燃料も積んでもらえないまま散った子です。四男は遺骨すらなく、石ころ一つが箱に入っていただけでした。私はそれを見た時、『どうか南の島で生きとってくれよ』と、アホなことを願いました。5人の子どものうち3人が先に逝ってしまった。私はそれが辛くてたまらなくて遺骨を抱いて毎日泣きました。すると主人から『息子達はお国のために命を捧げた英霊や。泣くな』と叱られました。その日から私は泣くこともできませんでした。舅と姑を送り、主人も亡くしました。二人の子どもはそれぞれに家庭を持ち、幸せになってくれました。ところが気がついたら、私は泣くこともなければ、笑うこともないそんな人間になっていました。こうしてここで先生に歌を聴かせてもらい、いろんなことを思い出しました。これからは歌を唄って明るく生きていきます」

彼女はこの後、元気に退院していったそうです。

高本さんが講演会でよく言われるお話です。「皆さん、夜よく眠れていますか。よく眠れる人は体が疲れている人です。体が疲れているのに夜よく眠れない人は脳が疲れている人です。そういう人は脳の疲れをとってあげなければいけません。脳の疲れをとるために良い歌があるんです。美空ひばりさんの『愛燦燦』です」
美空ひばりさんの歌は日本人の心の琴線にふれるのかもしれません。

映画監督の井筒和幸さんが雑誌の映画評論で『パーソナル・ソング』(※)というドキュメンタリー映画を観た時に、本当に驚いたと言われています。私もすぐに観て感動しました。アメリカには施設で余生を送る認知症患者が160万人程いるそうです。そんな患者さん達が出演した映画が『パーソナル・ソング』です。井筒監督は最初、「どうせアメリカの映画だし、樹木希林さんを凌ぐ、ボケた演技が格別に上手い老人俳優やろ。しかし、よくもこれだけ揃えたもんや」と思ったそうです。どうしてそう思ったのかと言うと、完全に認知症になった老人が、自分の思い出の音楽(パーソナル・ソング)を聴くことによって瞬時に覚醒するからです。主人公はソーシャルワーカーのダン・コーエンさんです。ダン・コーエンさんが音楽療法を多くの施設で行いました。すると何年も何の反応もなかった老人達が音楽の力で心の目を覚まし、人生の喜びと、人とのつながりを取りもどすのです。
 再度、井筒監督の言葉です。

「十年以上ふさぎ込んで、面会に来る娘の名も自分の名も思い出せない94歳の黒人の爺さん。iPod(アイポッド)とイヤホンを与えて、ビートのきいたゴスペルを聴かせると、爺さんにわかにノリノリになって、身体でリズムを取って歌いだすんよ。演歌のようにコブシきかせて唸り出す。凍結していた過去、教会に通っていた記憶がガツンと蘇り、皆と会話ができるんやから仰天や。ビートルズの『A HARD DAY’S NIGHT』(ア・ハード・デイズ・ナイト)で覚醒して踊りだす婆さんもいる。昔好きだったマイソングが細胞の鼓動のリズムと合うと、認知症から解放されるなんて、どこの国の神さまも知らんやろ」(※原文まま)

認知症には多くの場合、薬が処方されます。映画の中で紹介されていましたが、薬は高価で副作用もあるようです。それに比べて、音楽療法は安価で効果は絶大、副作用はまずないということです。現在アメリカでは多くの州で音楽療法が採用され始めているそうです。
 万国共通、人間は音楽によって癒されるのです。もし周りでふさぎこんでいる人や認知症の傾向の方があれば、その人のパーソナル・ソングを探して聴かせてあげるとよいかもしれません。

※『パーソナル・ソング』 詳細は20頁