不屈の精神で努力しましょう

掲載日:2019年8月1日(木)

誰しも子どもの頃に偉人伝を読んだことがあると思います。〝人生に対して勇気と希望を持ってほしい〟という願いを込めて、親は子ども達に偉人伝を与えるのだと思います。偉人伝の中ではエジソンやシュバイツァー、日本人では野口英世が有名ですが、私は「三重苦の聖女」と呼ばれたヘレン・ケラーが大変印象に残っています。

ヘレン・ケラーは視覚と聴覚に障がいを持ち、会話も不自由でした。実はヘレン・ケラーはお母さんからある偉人の話を聞いて、発奮して、頑張ったのです。それは塙保己一という日本人で、江戸時代の国学者です。この人は盲目でありながら41歳から30年以上かけて日本の古書・古本を集めて、『群書類従』という全集を編纂しました。

これには法律・政治・文学から医学・風俗・遊芸・飲食まで、あらゆるジャンルの文献が収められており、〝『群書類従』なくしては日本文化の歴史を解明することが不可能だ〟とまで言われています。

昭和12年に来日した際、ヘレン・ケラーは予てからの念願であった、東京・渋谷にある温故学会を訪れました。彼女はここに保管されている塙保己一の銅像や愛用の机に触れたかったのです。そして念願かなったヘレン・ケラーは次のように語りました。

「塙先生こそ私の生涯に光明を与えてくださった大偉人です。本日、先生の御像に触れることができましたのは、日本における最も有意義なことと思います。手垢のしみたお机と、頭を傾けておられる敬虔なお姿とには心から尊敬の念を覚えました。先生のお名前は、流れる水のように永遠に伝わることでしょう」

最近、西亀真さんの書かれた『幸せの入り口屋いらっしゃいませ』という本を読みました。西亀さんは盲目のセラピスト(療法士)です。

西亀さんは本の出版記念講演会で「私は47歳で視力を失いましたが、その代わりに心眼で見る、聴く、考えるなどによって、人の優しさや自分の可能性を体感しながら、すべてに感謝できるようになりました。目が見えていた時よりも幸せであると断言できます。過去と他人は変えられませんが、未来と自分は変えられます。〝本を出すことで多くの人に『幸せの入り口』に立っていただくという私の使命を果たしたい〟と思ったのです」と言われています。

当然のことですが、失明すると誰しも落ち込みます。この西亀さんも大変落ち込まれました。しかし、〝落ち込んでいては駄目だ。一歩を踏み出さなければいけない。0になったんだから、0を1にしなければいけない。1になれば1は簡単に2になり、3になっていくんだ。だから、思い切って何かを始めて0を1にしなければいけない〟と考えて始めたことが、47都道府県を一人で全部回ることでした。最初は職場への道を同僚について歩く訓練をしました。一人で職場に行けるようになって、次に47都道府県を一人で回ることを志して、それを達成されました。最初は愛知県名古屋市でした。

一番、印象に残っているのは岐阜県だと言われます。岐阜県の温泉に行って、温泉旅館に「泊めてほしい」と言うと、「目の見えない人を一人で泊めることはできない」と言われました。仕方なくビジネスホテルに泊まると、そこのホテルにはレストランがなく、「外に食べに行くように」と言われました。どこか近くに良いところがないか聞くと、「ホテルを出てこう行って、こう行くとビルがあって、そこにおいしい寿司屋さんがありますよ」と言われました。〝目の見えない人間に寿司屋さんはハードルが高いな〟と思ったそうですが、これも0を1にするチャンスだということで、寿司屋さんに行ってカウンターで食べたそうです。その結果、〝寿司屋さんで食べることができれば、あとはどんなところに行っても大丈夫だ〟と思うことができたそうです。そのビジネスホテルにあった大浴場にも一人で入りました。これによってまた0が1になりました。バイキング形式の朝食にも挑戦しました。そのようにして全国47都道府県を一人で旅されたのです。

その後、今度はニューヨークに行かれました。0が1になったので、2を3、3を4にするために行ったのです。ニューヨークは世界中から人が集まるところです。最近、日本は外国人観光客が非常に多く、京都の観光名所に行くと日本人よりも外国人の方が多いくらいです。しかし、一年間に日本全国を訪れる外国人の数よりも、一年間にニューヨーク市を訪れる外国人の数の方が多いのです。それくらいニューヨークは人が多く集まるところです。その大都会に西亀さんはチャレンジされたのです。

西亀さんは英語が苦手だったので、三つのフレーズだけを覚えました。一つは「宿泊先のリッツカールトンホテルに行きたい」です。二つ目は「日本語が話せる人はいますか?」です。三つ目は「ビールをお願いします」です(お酒がお好きなようです)。この三つだけで、ニューヨーク旅行を楽しまれたそうです。

そんな西亀さんも「網膜色素変性症」で目が不自由になった当初は悲しみと不安でいっぱいで、何かにつかまらなければと、盲学校に通って点字を習い始めます。年を取ってから点字を覚えるのはなかなか大変なようです。

「自分には点字は無理だ」と弱音を吐いた時に、盲学校の先生が「両目が見えなくて、両手も失った方が唇で点字を学ばれたそうですよ」と言ったのです。そのことを聞いた時、体に電気が走ったそうです。自分よりもっと過酷な境遇の人が頑張った話を聞いて魂が震えたのです。

そして、どうしても会いたくなってその人に会いに行ったそうです。同じ盲学校の先輩で藤野高明さんという人です。この人は戦後間もない頃、弟さんと一緒に遊んでいる時に、不発弾が爆発して弟さんは即死。藤野さんは意識を失って、病院で気がつくと目が見えず、両手がありませんでした。それでも親御さんは藤野さんに教育を受けさせようとしたのですが、教育委員会が「就学免除」と通達してきました。要するに目が見えなくて、手がなかったら学校の授業についていけないだろうということで、「就学免除」と言う名の「受入拒否」だったのです。それでも藤野さんは家で日常生活に支障がないように服を着たり脱いだり、食事・洗面・トイレはもちろん、七輪に火を起こすことまで全部自分でできるようになりました。それでまた福岡盲学校に入れるように頼みました。しかし、盲学校は拒否しました。なぜなら、盲学校は点字を習うところです。藤野さんは手がないので点字ができません。

藤野さんはそういう中でハンセン病の患者さんの本を読んだのです。北条民雄さんの『いのちの初夜』です。ハンセン病は手足の末梢神経が麻痺し、失明することもある病気です。失明したハンセン病の人達が唇や舌から血を流しながら点字を読むということを知りました。西亀さんが藤野さんのことを知った時と同じように藤野さんは魂が震え、〝そんな人がいるのか。自分も頑張ってみよう〟と、点字を唇や舌で読んだのです。

以前私は神谷美恵子さんの『生きがいについて』という本を読んだときに舌読を知りました。神谷さんは精神科医で今の上皇后・美智子さまのカウンセラーをしておられました。そして、美智子さまのカウンセリングの傍ら岡山のハンセン病療養所・長島愛生園でハンセン病の人達を診ておられました。

この本の中に近藤宏一さんという患者さんが出てきます。近藤さんはハンセン病のため、目が見えず、指先の感覚が麻痺していたので、点字を読むことができませんでした。しかし、ある日、聖書の言葉と出会います。友人が聖書を朗読してくれるのを聞くうちに、自分の中で制御できない衝動に駆られ、感覚の残る唇と舌先で点字の聖書を一心に読み始めたのです。聖書に光明を見出した近藤さんは目の見えない人を中心に楽団を作りました。ハーモニカバンド「青い鳥楽団」です。名前の由来は、〝心の中にある幸福(青い鳥)を発見しよう〟です。評判が評判を呼んで海外でも演奏をしたそうです。神谷さんは「長島愛生園の中では、多くの人がハンセン病になって隔離され、人生に絶望しています。しかし、そういう中で、おそらく一番生き甲斐にあふれている集団は目が見えない人達です。彼らは深い闇の中で大悟し、新しい精神世界に喜びを見つけ出したのです」と言われています。

藤野さんは血のにじむような努力の結果、唇で点字を読むことができるようになりました。しかし、福岡盲学校は入学を認めませんでした。手がないということで鍼灸・マッサージができないからです。しかし藤野さんはあきらめませんでした。調べると大阪の盲学校には音楽科があり、〝音楽科なら手がなくても関係ないだろう〟と、そこに点字で手紙を出しました。大阪の盲学校の方から「わかりました。試験に行きましょう」と、福岡まで盲学校の先生が試験をするために来てくれました。それまでに藤野さんはいろいろな人の助けを借りて猛勉強をしていましたので、見事合格となり、大阪市立盲学校の中学部二年生になりました。この時、藤野さんは満20歳でした。

それからも何度も試練がありました。勉強をしながら藤野さんは〝将来、盲学校の先生になりたい〟と思い、先生になる決意をしました。それには、大学を出なければなりませんでした。また猛勉強が始まりました。当時、大学は目の不自由な人の入学を認めていませんでしたから、藤野さんは大変な苦労をしながら日本大学の通信教育部を六年かけて卒業されました。

その後、就職をするのに点字での教員採用試験が当時はなかったので、「どうにかして点字での教員採用試験をしてほしい」と訴えました。その結果、「藤野問題対策協議会」というものができ、点字の教員採用試験が施行されました。藤野さんはその試験に合格し、念願かなって教員に採用されました。そして、ついに母校の大阪市立盲学校の教諭になったのです。

西亀さんは藤野さんに会って苦難の体験を聞き、勇気と希望をもらいました。この時以来、西亀さんと藤野さんはずっと交流を続けておられるそうです。

藤野さんは西亀さんに常々「障がいを壁と思うか、扉と思うか。それはあなた次第ですよ」「決して、決して、あきらめないでください。あなたの夢を」と言われているそうです。

今回は、盲目という過酷な運命を乗り越えられた方々のお話を書かせていただきました。どんな苦難でも、それを乗り越えるためには、不屈の精神が求められます。今回のお話で皆さんお分かりかと思いますが、先達の希有な、貴重な体験を学び、〝自分にもできる〟と信じ切り、努力を続けることが何より肝要だと思います。人間には誰しも無限の可能性があります。「舜も人なり、我もまた人なり」(※)です。

※舜も人なり、我もまた人なり
 人は誰でも努力や心掛け次第で立派な人間になれるということ。
「舜」は中国太古の伝説上の聖天子で五帝の一人。舜も自分も同じ人間だから、舜にできたことは自分もできるという意。