新元号が「令和」となりました。私は「れいわ」という響きがとてもすばらしいと感じました。出典は『万葉集』の三十二首の梅花の歌の序文、「初春の令月にして、氣淑く風和ぎ」の部分から取ったそうです。
今回の発表後、イギリスのBBCのネット速報は「REIWA」と伝えた後、その意味をOrder and Harmony(命令と調和)と説明したのです。あまり日本語に通じていない記者が「令」を「命令」の「令」と解釈したようです。すぐに日本政府が海外に向けてBeautiful Harmony(美しい調和)と発表しました。「令和」の「令」は令室・令嬢・令聞の「令」なのです。
安倍首相は「令和」について次のように言っておられました。
「この令和には〝人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ〟という意味が込められております。悠久の歴史と薫り高き文化。四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め令和に決定いたしました」
元号は中国の前漢の時代、武帝が「建元」という元号を定めたのが始まりです。現在元号を使用している国は日本だけです。日本では「大化」が最初で、現在の「令和」まで248あります。最初の頃は、お代替わり以外では縁起の良い出来事が起こった時に改元を行う「祥瑞改元」がよくありました。
例えば、「大化」の次の元号は「白雉」ですが、これは祥瑞とされる白い雉が天皇に献上されたことからです。また「大宝」は、対馬から金が献上され、国内で初めて金が産出されたことが祥瑞とされたのです。「慶雲」は、藤原京の西の空に縁起が良いとされる雲が現れたことが祥瑞とされました。純度の高い銅の塊が発見され、宮中に献上された時には「和銅」と改元されました。またある時、不思議な姿の亀が宮中に献上されました。亀は中国で瑞獣とされているので、これは良いことだということで「霊亀」と改元されました。「養老」という元号もあります。当時の元正天皇が〝身体に良い特別な水が湧き出る〟という噂を聞かれて行幸されました。そこでは、〝親孝行な息子に天が呼応して特別な水が湧き出したのであろう〟ということで、「養老」(老いを養う)という地名をつけられました。現在の岐阜県養老町です。元号も「養老」と改められたのです。
時代が進むにつれ、天災や疫病(流行病)、兵革(戦争)などによる社会不安を改元で払拭しようとした「災異改元」が盛んになりました。日蓮聖人のご遺文でもわかるように、鎌倉時代にはいろいろな天変地異が起こり、約百五十年の間に元号が五十回も変わっています。なかには三カ月で変わった「暦仁」という元号もあります。日蓮聖人はそのような社会の混乱する様子を見られて『立正安国論』を著されたのです。
1333年、鎌倉幕府が後醍醐天皇によって倒されました。翌年、後醍醐天皇は元号を「建武」と改められました。これは従来と異なり、王朝を復興した偉業を天下に示すために行われたものです。歴史上、「建武の新政」と呼ばれています。しかし、後醍醐天皇は二年足らずで足利尊氏の離反により、奈良の吉野に移られます。その場所が南朝と呼ばれ、足利尊氏の立てた天皇が京都で北朝を築き、南北朝の時代となります。この南北朝の時代には二人の天皇がそれぞれの元号を定められました。
室町時代から江戸時代は武家の力が強く、元号案に幕府の介入がかなりあったようです。江戸時代には「令徳」という元号を天皇が希望されたのですが、徳川幕府が反対しました。〝徳川に命令する〟と捉えたためです。
江戸時代も火事や災害のたびに改元が行われました。その回数が多くなるにしたがって、学者達から「改元は天皇一代に一回」の声が上がり、時の老中・松平定信に対して意見書が出されたこともありました。そして、明治改元の際、「以後、一世一元とする」という詔と行政官布告が出され、これが明治の皇室典範に受け継がれました。しかし、GHQの指導により、戦後の皇室典範には元号の規定がありませんでしたので、この度の改元は昭和54年に成立した「元号法」に基づく「平成」に続く二度目の改元です。
5月1日に新天皇が即位され、元号が「令和」に変わり、今年はゴールデンウィークが十連休でした。昭和60年に〝祝日と祝日にはさまれた日を休みにする〟という法律ができたことによります。最近は休みを増やそうということで、もともとの祝日からずれて休日になっている日があります。たとえば体育の日は、以前は10月10日で、1964年の東京オリンピックの開会式を記念して定められた祝日でしたが、最近はその年によって違うので、その日の意義がだんだんわからなくなってきているようです。
皆さん、ご存知でしょうか。戦前は「祝祭日」といって祝日と祭日がはっきりわかれていました。「祝日」はお祝いをする日で、「祭日」はお祭りをする日でした。それが敗戦後GHQによって〝祭日は宗教的で、皇室や神道と結びつきが強い〟という理由から廃止され、当たり障りのない口実をつけて祝日に替えさせられたのです。
11月23日は勤労感謝の日ですが、元は「新嘗祭」といって、〝豊かに実った最初の穀物を天皇が神に感謝をして供え、自らも食する〟という、国民こぞって天の恵みに感謝をする日でした。また、春分の日と秋分の日がなぜ祭日かわかっている人は少ないと思います。これは「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」という祭日でした。皇霊というのは天皇家の祖霊です。681年、天武天皇が最初に祖霊をこの日に祀られました。その理由は、この日は一年のうちで昼の長さと夜の長さが同じだからです。古来、〝昼は人間が活動する時間。夜は神々や霊の時間〟と考えられてきました。昼夜の時間の長さが同じということは、〝人間と神々、祖霊が最も通じ合える日〟と考えられたのです。それが庶民にも広まり、彼岸の教えと相まって先祖供養をする日となったのです。これは日本独自の文化です。
「国の個性は祝日に表れる」と言われますが、どの国にとっても一番大事な祝日は、「建国記念日」「独立記念日」です。
アメリカは独立宣言が採択された1776年7月4日が独立記念日です。フランスはフランス革命の発端となったバスティーユ牢獄襲撃事件の1789年7月14日が建国記念日で「パリ祭」の日です。
中国は四千年の歴史を持つと言われていますが、調べてみると「建国記念日」は毛沢東が天安門広場で建国宣言をした1949年10月1日で、まだ建国して七十年の新興国です。しかし、どの国も建国・独立の古い新しいにかかわらず盛大にお祝いをします。
翻って日本はどうでしょうか。2月11日は「建国記念の日」で祝日なので、会社も官公庁も学校も休みですが、慶祝ムードというのはほとんどの方が感じておられないのではないでしょうか。戦前はこの日は「紀元節」という祭日で他の国と同じように盛大に祝われていました。『日本書紀』の記述を根拠に、紀元前660年の旧暦1月1日に、初代天皇である神武天皇が即位された日を記念して定められたのです。
敗戦後、GHQから「日本書紀は神話にすぎず、歴史書として科学的な信憑性に欠ける」などと横やりが入って「紀元節」は廃止されたのです。この時から国の起源が曖昧になり、国民一人ひとりが建国を祝い、日本に生まれたことに感謝する気持ちが薄れてしまったようです。
そうして、しばらくの間、「建国記念日」はありませんでした。しかし、「こんな大事な日を祝わないのはおかしい」と国会で議論になりました。当時の野党は、「神武天皇が本当に存在したかどうかもわからないし、2月11日が正しいかどうかもわからない」といって反対しました。結局、法案が通ったのは、戦後二十一年経った1966年でした。「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」として成立しました。「建国されたという事象そのものを記念してもよいだろう」と野党が妥協した結果、「の」が入ったのだそうです。
5月1日に新天皇が御即位されました。10月22日には「即位礼正殿の儀」が行われ、世界中から国家元首が招待され盛大に祝われます。この一連の行事を国民みんなでお祝いすることが建国を喜ぶ、この国に生まれたことに感謝するということにつながっていくのではないかと思います。