今月は10月号の『陰騭録』のお話の続きです。
少し話が前後しますが、袁了凡の了凡という名前は、善行の誓いを立てた時に旧名、学海から改名したものです。この名前は〝凡夫を終了する〟という意味です。〝凡夫を終え、徳の人として生きていく〟という決意の表れです。袁了凡は善行の誓いを立ててから、緊張して、良い意味でビクビクし出したのです。どうしてかというと、それまでは〝人生は決まっているものだ〟と思ってのん気に暮らしていたのですが、ここに至って〝自分の行いを諸天善神が見ておられる〟と思ったら、緊張してうかうかしてはいられなくなったのです。一日として疎かにはできないという心境になったのです。
「慎独」という言葉があります。四書の一つ『中庸』に「君子はその独りを慎むなり」とあります。〝独りでいる時、誰も見ていない時でも諸天が見ておられると思って、自分の行いを慎む。誰も聞いていないと思っても、諸天が聞いておられると思って発する言葉に気をつける〟ということです。この慎独を袁了凡は始めたのです。
最初の三千点の善行を完了した袁了凡は次に奥さんと一緒に、子どもが授かることを願って新たに三千点の誓いを立てました。すると、翌年には男の子が産まれ、天啓と名づけました。
袁了凡は一善事を行うごとに、いちいち帳面に記録していましたが、奥さんは字が書けなかったので、一善事を行うたびに暦の上に赤丸をつけました。貧しい人に施しをしたり、生きた鳥や魚を買って放してやったりして、一日のうちに十個以上も赤丸をつけることもあったといいます。
似たお話が日本にもあります。江戸時代、長州藩の儒学者で、漢方医でもあった滝鶴台という人がいました。この人の奥さんの話です。
ある日、滝鶴台が書斎で勉強している時、奥さんがお茶を持ってきますと、袖から赤い毛糸玉が落ちました。滝鶴台が「それは何だね」と尋ねると、奥さんは「お恥ずかしい。これは少しでも罪障を作った時には、私は赤い糸を玉に巻いているのです。実はもう一つ玉を持っています。善いことをして徳が積めた時には、白い糸を玉に巻いているのです。最近になってようやく白い玉の方が大きくなりました」と言って白い毛糸玉を見せました。それを見た滝鶴台はとても感心したというお話です。
袁了凡は夫婦で一丸となって善行に励み、今回は四年目にして三千点を完了することができました。この時も大勢の上人方を招いて家で先祖の回向をしました。
そして、袁了凡は進士の試験の合格を祈願して、夫婦で一万点の善行を誓いました。袁了凡はこの試験にも受かり、宝坻県の知事という高い位の役人に任命されました。その頃には、「治心篇」と名づけた帳面に自分の行う善悪をすべてつけていました。毎日、夜になると、庭に机を出し、香を焚いて、その帳面を広げ、諸天善神に報告をしていました。ある日奥さんが、「最近は地位の高い役職になり、役所の中で暮らしているものだから、人と接する機会も少なくなって、あまり徳が積めませんね」と言って悲しそうな顔をしました。
その晩、袁了凡は夢を見ました。その夢の中に神さまが現れたのです。袁了凡は「せっかく一万点の善行を誓ったのに、なかなか成就できません。どうしたらよろしいでしょうか」と尋ねました。すると神さまは「もしお前の糧一節を減じたならば、一万の善行も一時に成就するであろう」と告げました。「糧を減ずる」とは、「税金を減らすこと」です。当時の税金はお米ですが、それを減らすということです。それにともなって袁了凡の収入も減るということです。そこで袁了凡は税金を大幅に減額しました。これぐらいのことで本当に一万点の善行が成就されるのだろうかと思っていると、折よく五台山の幻余禅師という高僧がやって来られたので、袁了凡はこれで本当に良いのかを尋ねました。幻余禅師の答えは「善心が真実からであるならば、一善行と言えども万善に相当するものである。まして、全県下の糧一節を減らし、万民が福を受けるのであるから、疑う余地はない」というものでした。
袁了凡夫妻は、その後、一万点の善行を完了し、かねてから俸給を節約して貯蓄しておいたお金で、五台山において一万人の僧にご供養し、先祖の回向をしました。
袁了凡の『陰騭録』は息子・天啓に語ったものです。袁了凡がこれを書いた時、六十九歳でした。「立命の学」の結びで次のように語っています。
「天啓よ、私はいろいろなことを誓願して善行を重ねてきたが、寿命長久の祈りはしたことがない。それなのに孔老人から五十三歳で死ぬと言われた自分が、六十九歳になっている。功徳はありがたいものだ。
聖人は、善を作せば天これに百祥を降し、不善を作せば天これに百殃を降すといい、また禍福は己より求めざること無しという。これらは自分の行いによって禍福が決まるということである。聖賢の言葉は正しい。私自身が体験し味わったことである。一点の疑いもない。父を信じて善行を力行せよ。そしてどんなに高位高官となり、人から敬愛される身となっても謙虚でいるのだ。ただ謙虚のみ福を受けるのである。日々に己を反省し、過ちを改め、積善につとめよ。ぐずぐずしていては人生が終わってしまう。雲谷禅師が授けてくださった立命の説は、極めて正しい道理である。一所懸命に行い、日々を空しく過ごすことがあってはならない」
「立命の学」は単なる袁了凡の立身出世の物語ではありません。これは一人の稀有なる人物の積善の記録であり、一生をかけた人格陶冶の貴重な体験です。
『陰騭録』の解説書は現在、何種類も出ていますが、その中の一つに浄空法師という方の書かれた物があります。その中に〝修行が進むとこういう風になる〟という話が出ています。
印光大師という高僧がかつておられたそうです。この印光大師が住んでいた部屋には蚊・ハエ・ノミなどがいて、弟子達がそれらを追い出そうとしましたが、印光大師がそれを止めて、「そうする必要はない。彼らがいるということはまだ私の修行が足りていないということだ。徳行をもって彼らを感化することができていないのだ。だから追出してはいけない」と言ったそうです。そうして、印光大師が七十歳を過ぎる頃になると、不思議なことにそういう虫は一匹もいなくなったそうです。浄空法師は今、オーストラリアに住んでいるそうですが、住み初めの頃は印光大師のように家の中に虫がたくさんいたそうです。
それが、雲谷禅師の功過格にあるように小さな虫達の命も愛惜し、修行が進むにしたがって、虫達は、家の中に入ってこなくなったそうです。この後、虫だけでなく花や野菜にも心が通ずるようになったそうです。
私達も徳を重ねて人格陶冶に励みましょう。次回は第二章「謙虚利中」です。