法華経受持の功徳を 我が身に味わいましょう

掲載日:2018年6月1日(金)

昔、今の皇后陛下が皇太子殿下を御懐妊されたとき、御開山上人のもとに関西の信者さんが「皇后陛下の胎教のお徳願い」として、当時のお金で10万円程持ってこられたそうです。かなりの大金です。その時に御開山上人は、日本のこと、皇室のことを心から思ってくれる人が法音寺の信者さんの中におられたことをとても喜ばれたそうです。自分のこと、自分の家族のことは大事ですが、〝日本全体の幸せを祈る。世界の人々の幸せを祈る〟

これはとても大切な心掛けだと思います。

法華経と聖徳太子

日本国の安寧をひたすら祈られたのが日蓮聖人です。日蓮聖人と言えば法華経、法華経と言えば日蓮聖人です。世間では日本の法華経は日蓮聖人から始まったと思っておられる方も多いと思います。確かにお題目は日蓮聖人からですが、法華経は違います。日蓮聖人も「日本はもともと大乗の国である。殊に法華経の国である」とおっしゃっています。

日本で最初に法華経を広められたのは聖徳太子です。

聖徳太子の時代、中国は隋という国でした。隋には天台大師智顗という偉いお坊さんがいました。この方は南北朝から隋の時代にかけて活躍し、小釈迦とも言われました。

この方が、「お釈迦さまの一代の教えの中で法華経が一番である」と説かれたのです。それによって隋の時代には諸経の王・法華経を信仰する人がたくさんいました。

隋の第二代皇帝・煬帝は熱心に法華経を信仰し、天台大師を尊崇していました。天台大師から菩薩戒を受けて「總持」という法名を授かり、天台大師には「智者」という特別な称号を下賜しました。これが後世、「智者大師」という大師号のもとになります。

天台大師が遷化された後、煬帝は天台大師の瑞夢を見ました。煬帝は感激し、天台大師の御報恩供養のために、天台山国清寺という壮麗な寺院を建立しました。その開堂の時には国中から高僧を集めて大法会を催しました。

このように、隋の時代には法華経が国の隅々まで広まっていました。当時、聖徳太子は遣隋使を送っていました。遣隋使や学生、学僧達が隋に送られ、帰ってくると「隋という国では、法華経という教えが非常に広まっています。国の隅々までみんな法華経を唱え、信仰をしています」と報告したのです。そこで聖徳太子は「一度、法華経という経典を私のところへ持って来なさい」と言われ、聖徳太子自ら法華経を読まれたのです。そして、すぐに「これはすばらしい」と感銘を受け、自ら注釈書を作られました。今でも原本が宮内庁に残っているそうです。

その注釈書は「法華義疏」と言います。序説に「夫れ妙法蓮華経は蓋し是れ惣じて万善を取りて、合して一因となすの豊田、七百の近寿転じて長遠となるの神薬なり。―中略―是を以て如来即ち万徳の厳軀を動かし、真金の妙口を開き、広く万善同帰の理を明して、莫二の大果を得しめぬ」と書かれています。「あらゆる善きものは法華経に帰着する。法華経こそは最高の経典だ」と言われたのです。聖徳太子はこの法華経をもとに有名な十七条の憲法を作られました。

十七条の憲法の第一条は「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗と為す」です。これはまさに法華経の精神・三徳の教えです。「人と人の和を何より大切にし、諍いを起こさないことが根本である」ということです。

聖徳太子は終生、法華経の教えを守りながら治世をされました。その教えが次第に日本に広がり、奈良時代を経て、平安時代になると、法華経はもう日本人の生活の隅々にまでしみ込んでいました。当時は「生まれたる稚児も法華経を読む」と言われた程です。

このもとは伝教大師最澄です。天台大師の教えをそのまま日本に持ち帰り、比叡山延暦寺を建立して法華経を広められました。そして、平安京を造られた桓武天皇が伝教大師を庇護されたので、さらに法華経は広まったのです。

もう一つ法華経信仰が日本に根付いた理由があります。それは藤原道長です。この人は栄耀栄華を極め、「此の世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」という有名な歌を残しています。これは長女の彰子が一条天皇(第66代)に嫁して後一条天皇(第68代)と後朱雀天皇(第69代)を生み、次女の妍子が三条天皇(第67代)に嫁ぎ、三女の威子が後一条天皇の皇后になった時、長女彰子が太皇太后、次女妍子が皇太后、三女威子が皇后という空前絶後の「一家立三后」という状況になりました。その時に詠んだ歌なのです。

実は道長は、その執政の当初から法華経の信行、殊に読経に熱心でした。『栄花物語』に次のような話があります。後に宇治平等院を造営した長男の頼通が病気になった時に、道長は「ここら年頃仕え奉る『法華経』助けさせ給え。この世界に『法華経』が行われて仏道を広げたということも、その多くはそれがしが仕ったことなのです。この頼通の病の折にこそ、その験力を見奉ることなくご恩を蒙らないのでは、一体いつを期したら良いのでしょうか」と祈願しています。“日ごろ法華経を信行し、広めているその功徳を今見せて欲しい。今見せてもらえなければ一体いつその功徳が見えるというのでしょうか”と守護を求めたのです。と同時に、ここには強い信行に対する自負が感じられます。

頼通の病気は霊障であることがわかり、法華経読誦により悪霊が成仏退散して頼通の病気は治ります。この後、頼通は関白を50年の長きにわたって務め、父道長とともに藤原氏の全盛時代を築きました。

このような話があるように、“法華経には大変な功徳がある。藤原摂関家一門の繁栄は法華経信仰の結果だ”と、宮中から一般庶民に至るまでみんな、法華経を一生懸命信行し、平安時代には法華経読誦の音が天下に満ち満ちたと言われています。

法華八講

法華経には受持・読・誦・解説・書写の「五種法師の行」をするように説かれています。平安時代には法華経解説のために「法華八講」が盛んに行われていました。法華経八巻を八座に分け、朝夕二座講じて、四日間で終わるのが「法華八講」です。清少納言の『枕草子』や、紫式部の『源氏物語』にもよくその話が出て来ます。

ちなみに紫式部は道長の長女彰子に仕えた女官で、清少納言はその前の皇后定子に仕えた女官です。

法華経を説くのも上手なお坊さんとそうではないお坊さんがいたようです。そうした中で、清範というお坊さんが大人気でした。清少納言が『枕草子』を書いた時、清範上人は25歳だったといいます。説法無双で「文殊の化身」と言われていました。その清範上人の話が『枕草子』や、『源氏物語』に出てきます。清少納言は知的教養の話の中に、紫式部は敬虔な信者の立場で書いています。

紫式部が「妙なりや今日は五月の五日とて五つの巻にあへる御法も」という歌を残しています。これは〝五月五日の『法華八講』で五の巻が講義されるとは、五が三つ並んで本当にありがたい〟という意味です。

 五の巻の最初は「提婆達多品第十二」です。当時はこの提婆達多品が「悪人成仏・女人成仏」ということで非常に人気がありました。「法華八講」のクライマックスも五の巻でした。

お坊さん達は、今までは説法をしているだけでしたが、ここでは行道をして散華をするのです。その時、行基菩薩作の「法華経を我が得しことは薪こり菜つみ水汲み仕えてぞ得し」という有名な和歌を詠みながら行道散華をしました。また一般の人は、わざわざ薪を背負ったり、水桶や菜桶を担いだりして、それぞれ扮装をして列に加わったという話です。それ程、五の巻は特別だったのです。

今昔物語に、ある貴族のお話があります。その貴族の家にきれいな娘さんがいました。10歳くらいで書も上手、和歌も上手、琴を弾くのも名手という女の子でしたが、一つ変わったところがありました。梅の木が大好きで、梅の咲く時期になると一日中、梅の木をずっと見ていました。花が散ると、その花びらを集めて宝石箱のような箱を作り、花びらを入れて匂いを嗅いで楽しんでいました。風の強い日には花びらが散ってどこかにいかないように、木の下に敷物を敷いて花びらを集め、また箱に入れていました。とにかく病的な程、梅が大好きでした。その女の子がいつの間にか病気がちになり、とうとう死んでしまいました。両親は非常に悲しみました。来る日も来る日も、梅の木を見ては娘のことを思い泣いていました。

ある日、梅の木に蛇が巻きついているのが見えました。花が咲いて散ると、蛇は口でそれをくわえて集め、一処に置くのです。慄然とした父母は、この蛇こそまぎれもなく娘の生まれ変わりに相違ないと思い、娘の成仏を願って、先ほどの清範上人を招き、「法華八講」を梅の木の下で行ってもらいました。蛇は最初の日からずっと、じっとして説法を聞いていましたが、五の巻の竜女成仏のところにかかった時に動き出し、木から落ちて死にました。それを見た人々が「竜女成仏のところで蛇が死んだということは、娘さんは蛇に生まれ変わって、今法華経の教えを聞くことができ、成仏したにちがいない」と口々に言いました。

その晩、父親が夢を見ました。死んだ娘が汚れた着物を着て、悲しそうな表情で出て来たのです。そこに、清範上人のような気高い僧侶がやってきて、その汚い着物を脱がして美しい衣と袈裟をつけさせ、紫の雲に乗せて何処へともなく消え去って行くという夢でした。この夢の話を聞いた人は「間違いなく法華経聴聞の功徳で娘は成仏したのだ」と言い合ったというお話です。当時の法華経信仰が偲ばれます。

平安時代は文字どおり平安な穏やかな時代でした。第52代嵯峨天皇の御代から武家が台頭する保元の乱、平治の乱の前まで三百年以上の間死刑が行われなかったのです。これもまた法華経流布の功徳かと思います。