江戸時代に昌平坂学問所という幕府の学校がありました。ここは孔子の儒教を教える学校でした。孔子の生地である昌平郷にちなんで「昌平坂」と命名されました。「昌平黌」とも言われます。その学校の総長に美濃国岩村藩出身の佐藤一斎という傑物がいました。佐藤一斎の随想録である『言志四録』は西郷隆盛の終生の愛読の書であったことが知られています。
近年、この佐藤一斎が俄に有名になったことがあります。小泉純一郎元総理が就任間もない頃、「教育関連法案」を審議中に佐藤一斎の『三学戒』の「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず」について述べたことがきっかけです。また、小泉元総理が外務大臣に任命した田中真紀子さんに「これを読むといい」と渡されたのが佐藤一斎の『重職心得箇条』です。これは全部で十七箇条です。文章としてはむずかしいですが、内容はわかりやすいものです。重職だけでなく、我々にもためになるような内容です。一つ紹介しておきます。第五条です。
「機に応ずということがある。何によらず後から起こることはあらかじめ見えるものである。その機の動きを察して、拘泥せずに処理せねば、後でとんと行き詰まって困るものである」
良いことにも悪いことにも必ず兆候があるということです。悪い方でいうと病気がそうです。大病の前には必ずその兆候があります。事故でも、大きな事故が起こる前には必ず兆候があります。その兆候に鈍感な人や、こだわりの強い人は兆候を見失ってしまいます。兆候を見失うと、後で二重三重に苦労をします。だから〝兆候に敏感であるように〟ということです。
ここからが本題です。佐藤一斎は『言志四録』の中で次のように述べています。「人は真剣に考える必要がある。天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとしているのか。自分はすでに天より生じたものであるから必ず天から命じられた役目がある。その役目を謹んで果たさなければ必ず天より罰を受けるであろう。このように省察すると、うかうかと生きるべきではないことがわかる」
〝人間はこの世に生まれてきたら、必ず役目がある。その役目を果たさなければいけない。そう考えると、うかうか生きているわけにはいかない〟
その通りだと思います。
人生の流れに身を委ねる
ヨガと瞑想に人生を捧げていたアメリカ人の実業家マイケル・シンガーという人が『サレンダー』という本を書いています。サレンダーとは〝身を任せる〟とか〝身を委ねる〟という意味です。この人は20代の頃、〝森の中で一人で暮らし、自分が暮らせるだけのお金があればいい〟という、本当に欲のない人でした。この人が〝今のままで自分の生き方はよいのだろうか。ヨガと瞑想に明け暮れるだけの人生でよいのだろうか〟と考えたのです。そこで思いついたのがサレンダーです。〝自分がどう生きるべきかはたぶん自分より人生そのものの方がよく知っているだろう。人生に身を任せてみよう〟と考えました。それから「サレンダー・エクスペリメント(身を委ねる実験)」が始まりました。これは簡単なことです。自分の好き嫌いを手放して、〝人生の流れに身を委ねる。人から何か頼まれたら、それを断らない。大抵のことは引き受ける〟そう決めたのです。そうすると人生の導く通りに生きられるだろうと思ったのです。
まず、知人から大学の非常勤講師を頼まれました。内心、〝あぁ一番苦手なのがきたな〟と思ったのですが「はい、喜んでやります」とマイケルは言ったのです。それから人生がどんどん変わっていくのです。紆余曲折はありましたが人生が良い方向に変わっていきました。
実験を始めてから30年後、マイケルは特に何も望んでいないのに2000人のスタッフを抱えるコンピュータ会社のCEO(最高経営責任者)になっていたのです。一人で暮らせるだけのお金があればよかった人が、求めずして、億万長者になったのです。
マイケルは「自己実現の道は瞑想以外にはないと信じていた。だが、それは間違っていた。人生は他人への奉仕を通して、自分自身を解き放つ方法を指南していた」と言っています。マイケルの言う人生とは神であり、佐藤一斎の言う天であろうと思います。
神に呼ばれたシュバイツァー
世紀の偉人、アルベルト・シュバイツァーの話です。昔の偉人伝には必ずシュバイツァーが入っていました。私も子どもの頃に読みました。「密林の聖者」と呼ばれ、ノーベル平和賞を受賞しています。
シュバイツァーはお医者さんになる前は、神学博士、哲学博士として活躍していました。特にカント哲学に関する優れた業績もありました。そして、ヨーロッパ有数のオルガン奏者であり、バッハの研究者としても有名でした。
シュバイツァーは30歳になった時、赤道アフリカ地方での黒人の窮状を知って奉仕に一生を捧げるべく、医学部に入ります。やがて、ランバレネの水と原生林のはざまに病院を建て、奉仕活動を始めたのです。シュバイツァーのオルガンの先生だったビドル先生は、「なぜ止めなかったのか」と回りから責められた時、言いました。
「神さまが呼んでいるらしい。神さまが呼んでいるというのに、私が何をすることができようか」
少し遡ります。シュバイツァーの21歳の時の言葉です。「ある晴れた夏の朝、眼がさめたとき、〝私はこの幸福をあたりまえのこととして受け取ってはいけない。そのお返しとして何か与えなくてはいけない〟という考えが浮かんだ。30歳までは学問と芸術のために生きてよいことにするが、それ以後は〝人類への直接奉仕に身を捧げよう〟と自分に対して約束した。その将来に計画された仕事の性質がどんなものであるかは、まだ私には明らかではないが、それは事の成り行きが導いてくれるに任せた」
シュバイツァーは28歳の頃から具体的に何をしたらよいかを探り始めました。孤児の世話や免囚保護事業などを試みましたが、なかなかこれだと思う仕事に出会えませんでした。しかし、30歳の時に運命的な出会いがあったのです。
ある日のこと、新聞を見ると教会の呼び掛ける「コンゴ医療伝道」の募集記事がありました。
「主の呼び掛けに対して『私が参ります』と、単純に答えられる男女を教会は必要としています」
シュバイツァーはこれを見て「私は静かに自分の仕事を始めた。模索は終わった」と言っています。この後、シュバイツァーは医学部に進み、生涯「医療伝道」の道を歩んだのです。
シュバイツァーは言っています。
「自分の仕事で世の中に貢献することは非常に大事です。しかし、もう一つ上のことを考えると、いつも〝直接に奉仕したい〟という思いを持っていることがもっと大事なんです」
仕事のことを英語では〝calling〟と言います。「神に呼ばれる」「神に呼び出される」という意味です。我々も日々の仕事を〝calling〟の意識で行うべきかもしれません。
国境なき医師団ポー・フェイさんの話
もう一人お医者さんの話をします。皆さん国境なき医師団をご存じだと思います。世界の紛争地域、貧困地域において、ほぼ無償で働くお医者さん達です。私はときどき寄付をさせていただくのですが、寄付をすると領収書とともにお礼状が届きます。
ある時のお礼状に、マレーシアに住む中国人女性の小児科医、ウォン・ポー・フェイさんの文章が載っていました。
「私は家族を重んじ、きちんとした教育を受けることを良しとするマレーシアの中国人家庭に生まれました。私が育ったコミュニティでは、大半の親は子どもが医者や弁護士になり、成功と呼ばれるような人生を送ることを期待するため、医学を志した私は両親にとって自慢の娘だったと思います」
ある日の昼食時、国境なき医師団から連絡が来ました。お母さんは驚き、どういうことかとポー・フェイさんに聞いてきました。
「私がお医者さんになったのは、医療を必要としている貧しい人々に援助をしたいと思ってのことなの。私は以前から国境なき医師団に登録していたの。医師になったらすぐに派遣してくださいと…」
これも「神の呼び掛け」だと思います。そして、お医者さんになってすぐ連絡がきたのです。それがシュバイツァーと同じアフリカでした。西アフリカのシエラレオネという国です。内戦がずっと続いていて、一時期ニュースでよく流れていました。そして、近年はエボラ出血熱が蔓延していることで有名です。「そこへ行ってくれないか」と、お医者さんになったばかりの女の子に国境なき医師団は打診してきたのです。ポー・フェイさんはこの神の呼び掛けに対して「はい」と答え、シエラレオネへむかったのです。
両親は地球の反対側にいる娘を、来る日も来る日も気づかい続けました。そして幸いにも無事帰国することができました。両親がほっと胸をなで下ろしたのも束の間、今度は2カ月後にアフガニスタンでの活動が決まりました。この時の両親の反応は驚く程静かで、寡黙なお父さんが次のように言われたそうです。
「いつか自分の一生が走馬灯のようによみがえる日が来る。その時に振り返るに足る人生にしなさい」
この後、ポー・フェイさんはアフガニスタンからも無事帰国されました。
日本の救世主になってください
今から7年前、東日本大震災の際、2011年3月12日に東京電力の福島第一原子力発電所の一号機が爆発を起こしました。〝日本が終わるのではないか〟と思われた方もあると思います。あの時にあのまま爆発が続き、格納容器が爆発していたら日本は本当に終わっていたかもしれません。
当時の吉田昌郎所長の言葉です。
「格納容器が爆発すると、放射能が飛散し放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。最大を考えれば、チェルノブイリ×10という数字が出ます。だからこそ、現場の部下達の凄さを思うんですよ。それを防ぐために、最後まで部下達が突入を繰り返してくれたこと、そして、命を顧みずに駆けつけてくれた自衛隊をはじめ、沢山の人達の勇気を称えたいんです」
吉田所長の決断のもとに入れ続けた水が、最後の最後でついに原子炉の暴走を止めたのです。最初に、日本のために命がけで海水を注入しに原発の中に入っていったのが、福島原発職員の50人です。外国のメディアがこの50人のうちの一人にインタビューをしました。「よくあの中に入っていきましたね。怖くなかったのですか」と聞くと「死ぬことは全く恐れていませんでした。これが我々の仕事ですから」という答えでした。彼らのことは「福島フィフティ」として世界中に報道されました。
しかし、なかなか鎮火しませんでした。自衛隊も決死の覚悟で上空からヘリコプターで水をかけました。そして、「陸路から原発に誰かいけないか」という呼び掛けに対して、東京消防庁ハイパーレスキュー部隊の隊長、佐藤康雄さんが「私達が行きましょう」と返事をしました。佐藤さんは3週間後に定年退職を控えていました。その人が、自分が隊長となって原発に向かったのです。消火活動後に佐藤さんはマスコミのインタビューを受けました。
「現場に向かうことを家族や奥さまは反対されませんでしたか」
佐藤さんはこう言われました。
「実は出動前、家内にメールを送ったのです。『千年に一度の大災害が起こった。現地で指揮を執ってくる』と。 家内からは『わかりました。日本の救世主になってください』と返事が届きました」
日本のために、原子炉の暴走を止めた勇気ある人達、まさしく〝calling〟、日本の神々から呼ばれた人達であると思います。