先日、社会福祉法人昭徳会の施設・泰山寮の改築上棟式が行われました。泰山寮は「自閉症」と診断された方々の通所施設です。御開山上人の二十三回忌の時に遺徳顕彰事業の一環として日達上人が愛知県からの要請を受け、開所されました。それまで、日本国内にはあまりない施設でしたので、どうやって運営していけばよいか手探りの状態で始まりました。
泰山寮が開所したのは昭和61年4月1日ですので、今年30年目に入ったところです。普通、築30年程度では建物の建て替えはしないものですが、泰山寮は傷みが激しいのです。なぜなら、利用者さんがストレスでパニック状態になり、壁や柱を殴ったり蹴ったりするので、あちらこちらが損傷しているのです。
以前にもお話ししたことがありますが、男性職員が、クリスマスの時期にある男の子に「そんな横着をしていると君だけサンタさんが来ないぞ」と言ったことがあったそうです。するとその子がいきなり親指に噛みついてきたのです。その瞬間、親指の先が無かったといいます。今は移植されて治っているのですが、その時にわかったのが、一つは“力のコントロールが効かない”ということです。例えば皆さんが何かを叩く時、 “これ以上叩くと骨折するな”とか“怪我をするな”という感覚があると思います。しかし、それが無い人も中にはいるのです。だから、噛みつくときも思いっきり噛みついてしまうのです。
もう一つわかったことは“言葉が通じないと思っていたのに、ほめる言葉と貶す言葉は頭ではなく心でわかる”ということでした。
その後、職員は利用者さんに対してだけでなく、職員同士も良い言葉を必ず使おうということになったそうです。
そういうわけで建て替えということになったのですが、施設長さんが「利用者さんが高齢化しているので、これからはそんなに壊れないかもしれません」と言っていました。
本来、高齢化するということはおかしな話なのです。利用者さんは一定期間、施設でいろいろな指導を受け、社会に出ていくのが健全な姿なのですが、なかなか受け入れてもらえるところがないため卒寮できず、30年前の開所当時の人がまだいるのです。指導を受けた人が社会に出て、次の人が施設に入るのが理想ですが、なかなかそういうわけにはいかないのです。
昭徳会の知的障がい分野の事業は、御開山上人が昭和24年に八事少年寮を引き受けられたのが始まりです。それ以前、八事少年寮は名古屋大学医学部の杉田直樹博士が自費で運営していらっしゃいました。その杉田博士が定年を迎え、東京に帰られることになった時“後を引き受けてもらえないだろうか”と愛知県に頼みに行かれました。しかし、八事少年寮のような施設は全国でも数カ所しかなく、それも杉田博士のように個人で運営されているところばかりで、公的には運営されていませんでした。結局“戦後間もない頃で、施設を運営する予算もないし、ほかにやっているという前例がないから”という理由で愛知県には断られてしまいました。
その時、県の職員だった鈴木末造という方が杉田博士に声をかけました。
「あなたのところのすぐ近くに、戦前から社会福祉事業をやっている鈴木修学さんという方がおられます。あの方だったら引き受けてくださるかもしれません。紹介しましょうか」
実は杉田博士は御開山上人のことをすでに知っておられました。御開山上人が戦前から社会福祉事業をしておられたのをよくご存じだったのです。そこで鈴木さんから御開山上人の名前を聞かれた時 “この人しかいない”とピンときたのだそうです。そして息子さんと一緒に面会に来られ、御開山上人は当時昭徳会の常務理事だった礒村さんと一緒に対応されました。
礒村さんは当時を振り返り、次のように語っておられます。
「杉田博士はある朝、突然昭徳会を訪れ、理事長(御開山上人)に面会を求められました。博士は今までの経緯と窮状を話された後『あなたは宗教家である。しかも立派な息子さんがあって幸せです。仮にそのお子さんの中に私が抱えているような子どもができていたとすれば、あなたは生涯その面倒を見なければならない。それと思い合わせて、自分にそんな不幸な子どもができなかったことはありがたいことだと悟れば、宗教的にもまた別な喜びが湧いてくるのではありませんか』と言われました。私はそれを聞いて“まさに『釈迦に説法』とはこのことか”と思った」
この時、御開山上人は「おっしゃる通りですね。お引き受けいたします」と即答されたということです。しかし、愛知県にすらお金がないのに、昭徳会や法音寺にお金があるわけがありません。そこで、杉山先生、村上先生時代からの不動産で、特にその当時必要とされていなかった土地を売って運営資金に充て、さらに建物を直し、隣地を買い増して寮舎も増築されました。
知的障がいを持つ子ども達の養育・指導の方針として御開山上人が考えられたのは〝すべてのものを生かす〟という「観音精神」です。
“どんな子どもでも世の中の役に立つよう生かさないといけない。必ず彼らもこの世に使命を持って生まれてきている。だから彼らにも何がしかを学ばせ、仕事を覚えさせることによって、人間としての生きがいを与え、本当の生きる喜びを感じてもらいたい”
そして、名古屋市立の川名中学校や八事小学校に依頼して付属の施設内学級を造られました。今の養護学校、特別支援学校です。また彼らに木工などの仕事を与えました。これが今の授産施設になりました。八事少年寮で御開山上人により養育・指導を受けた子ども達の中で、軽度の子は社会に巣立っていきました。
世の中にはいろいろな福祉施設があります。重度の知的障がいの施設があれば、身体障がいの施設もあります。現在そういう施設には学校、病院などが併設されています。
山梨県に「あけぼの学園」という脳性麻痺の方のための施設があります。そこも学校と病院が併設されています。
今、山梨県の障がい者相談員をされている小林修さんは生まれつき脳性麻痺でした。
「自分はあけぼの学園で育ちました。そして学園に併設された学校のお陰で自分は一人前になれました」と言われています。
小林さんは脳性麻痺で体全体に障がいがあります。まず言語障害で言葉がうまく発声できません。脳の運動神経が侵されていて右足は棒のように固く、いつも力の入った状態です。家では今でも這うようにして生活をされています。普通の小学校には行けませんでした。そこで、あけぼの学園に入り、併設された学校に入学しました。その学校に入るきっかけは、両親が「お前の行ける学校ができたぞ。見に行くか」と言うので、うれしくなって、両親と一緒に見学に行ったのです。その時、お母さんがなぜか大きなトランクを持っていました。あとでわかったのですが、そのトランクの中には小林さんの着替えがたくさん入っていました。それは最初、本人には内緒でした。
午前中、施設を見て回り、お昼になった時、案内してくれていた先生が「修君もみんなと一緒に給食を食べるよ」と言いました。そして小林さんだけが食堂に案内され、給食を食べている間に両親は帰ってしまったのです。その日から六年間、親元を離れてそこで生活をすることになりました。
当時、小林さんはボタンを自分でとめることができませんでした。置いて行かれた次の日の朝、トランクを開けてみるとボタンのない服ばかり入っていました。それを見て“お父さんもお母さんも僕に『ここで六年間暮らすんだぞ』とは言えなかったんだな。言えなかったから黙って僕の服を置いていったんだな”と感じたそうです。
「施設での六年間、自分の下着は自分で洗濯させられました。機能訓練の時間があり、横一列になって手で洗うのです。家に帰れるのは一年に一回だけ。それも三日間だけでした。なぜなら、せっかく機能訓練をしても家に帰って手足を動かさないで怠けていると、もとに戻るからです。僕は今、基本的な生活はほぼ自分でできます。結婚もして子どももいます。今の自分があるのは、あけぼの学園の六年間の機能訓練のお陰だと感謝しています。厳しい先生もいましたが、そういう先生方のお陰で今の僕があると思えるのです。月に一回、面会がありました。僕はその日がすごく楽しみでした。僕には七歳年の離れた妹がいて、両親は妹を連れて面会に来ていました。よちよち歩きの妹を連れて、親子三人で帰る後姿を見ながら僕は四年生くらいまで、面会のたびに泣いていました。その時は親を恨みました。どうして僕ばかりこんな目にあわせるんだ。妹はいつもお父さん、お母さんと一緒にいるのにと。僕には今、大学一年生の子どもがいます。今になって思うのですが、自分の子どもを施設に預け、月一回面会に来て、泣いている僕を置いて帰らなければならなかった両親はどんなに辛かっただろうかと。そういう『子育て』があったからこそ今の自分がいるのです。心を鬼にして僕を置いていった両親には本当に心から感謝しています」
『1/4の奇跡』というドキュメンタリー映画があります。山元加津子さんという特別支援学校の先生が主人公で、その先生が映画の中で自分が接した子ども達のことを話され、その子ども達の姿が映るという、とても感動的なドキュメンタリー映画です。その中で「きいちゃん」という女の子の話があります。
きいちゃんは生まれてすぐに高熱が出て脳に損傷を受け、手足が思うように動かせない重い障がいが残りました。四歳の時に施設に入れられ、その施設から山元先生のおられた養護学校に通った生徒です。
きいちゃんは非常に暗い子で、二言目には「私なんて生きていてもしょうがないんだ」と言っていました。そのきいちゃんがある日、笑顔で職員室に入ってきたので「どうしたの?」と先生が聞くと「お姉ちゃんが結婚するの。私も結婚式に出るの。何を着ていけばいいかな」と言ったそうです。そのきいちゃんが、何日かすると暗い表情で職員室に入ってきました。また先生が「どうしたの?」と聞くと「お母さんが結婚式に出ないでほしいって言うの」と声を上げて泣くのです。実際は、お母さんは“きいちゃんが結婚式に来ると、いろんなことを言われて肩身の狭い思いをするのではないかと心配して、きいちゃんを結婚式に出さない方がいいかな”と思ったのです。きいちゃんの話を聞いて山元先生は、どうにかして励まそうと思い「お姉さんに何か結婚のお祝いを作ろう」と提案しました。きいちゃんは「着物を縫ってあげたい」と言いました。山元先生は「着物はむずかしいけど、浴衣なら縫えるよ」と言いましたが、内心は“きいちゃんには縫物はかなりむずかしいかな”と思っていました。きいちゃんは練習用の布で、まず運針の練習を始めたのですが、指先を刺してばかりでうまく縫えませんでした。その練習用の白い布がみるみる血で真っ赤に染まってしまったそうです。それでもきいちゃんはあきらめることなく、学校にいる間はもちろん施設に帰ってからも縫い続け、結婚式の十日程前に立派に浴衣を縫い上げたのです。
縫い上げたところでお姉さんにその浴衣を送りました。すぐにお姉さんから電話があり「きいちゃんだけでなく、ぜひ山元先生にも結婚式に出てほしいです」と言われました。
結婚式の当日、きいちゃんはお母さんに買ってもらった新しいワンピースを着て、嬉々として車いすで山元先生と参列しました。しかし、心ない人達が「あの子、花嫁さんの妹らしいよ。どうしてあんな子を連れてきたんかね」と話しているのが耳に入って、きいちゃんはどんどん沈んでいきました。山元先生もすぐに連れて帰ろうかと思ったそうです。しかしその時、お色直しでお姉さんがきいちゃんの縫った浴衣を着て入場してきました。そしてお姉さんがマイクの前で「この浴衣は私の大切な妹が縫ってくれました。妹は小さい時の高熱が原因で重い障がいを持ちました。そのため親元を離れて生活しなければなりませんでした。両親と生活をしている私のことを恨んでいるのではないかと思ったけれども、そんなことは少しもありませんでした。こんな素敵な浴衣を縫ってくれた妹は私の誇りです」と言ったのです。会場はあたたかい雰囲気でつつまれ、拍手が鳴りやみませんでした。
その後、きいちゃんはお母さんのところへ行き「生まれてきて良かった。お母さん私を産んでくれてありがとう。本当にありがとう」と言ったそうです。それまで「私なんか生まれてこない方がよかった」と言っていたきいちゃんがそう言ったのです。お母さんは泣いて山元先生にそれを報告しました。
それまでお母さんはずっと“きいちゃんの障がいは自分のせいだ”と自分自身を責め続けていたのです。それがきいちゃんの言葉で救われたのだと思います。
その後、きいちゃんは、明るく自信にあふれる女の子になったそうです。そして和裁を一生の仕事に選んだそうです。
御開山上人の説かれる観音精神。
「すべての人が学び、働き、世の中の役に立ち、人生の喜びを得る」
すばらしい考え方だと思います。