歌舞伎役者・市川海老蔵さんの奥さん、小林麻央さんは現在、ステージ4のガンで闘病生活を送っておられます。勇気をもってガンであることを告白され、それ以来、毎日ブログを更新されています。〝子どもの運動会に参加して非常に楽しかった〟とか、〝体調が悪く歩くのがつらくなった〟などの報告に、日本中の人が一喜一憂し、応援しています。この応援の力、支えは大きいと思います。しかし、一番大きいのはご家族の支えです。ご主人の海老蔵さんやお姉さんの小林麻耶さん、お母さんの支えが本当に大きいと思います。
幸せはガンがくれた』というロングセラーの本があります。副題は「心が治した12人の記録」です。著者の川竹文夫さん自身も、NHKのプロデューサー時代に腎臓ガンを克服された経験をお持ちです。その川竹さんは“ガンは心が治すもの”と確信し、心でガンを治した人たちを取材されました。
当時、12人のうちのひとり、堀江龍男さんは、肝臓ガンが寛解してから八年ほどが経っていました。堀江さんは50代でガンを発症したのですが、当時は、ガンを告知しない時代でした。最初に、奥さんが担当医に呼ばれ「手術をしても一年、手術をしないと半年の命」と言われたそうです。その時、担当医には「ご主人には内密に」とアドバイスされたのですが、奥さんは家に帰って堀江さんにガンのことを話しました。堀江さんはそれを聞いて背筋が寒くなり、震えがきてどうしようもなくなったといいます。当時、ちょうど石原裕次郎さんがガンで亡くなった後でしたので「石原さんも肝臓ガンで亡くなったな」とか「友だちも胃ガンですぐに死んでしまったな」ということばかりが頭に浮かんできたそうです。
その後奥さんの「食事療法を試してはどうか」との言葉に、堀江さんは「切っても切らなくても半年か一年ならそっちでやってみるか」と玄米菜食をとりいれました。東京にあるクリニックの先生から食事指導を受けて始めたそうです。始めた当初は効果もなく、堀江さんは寝たきりの生活だったそうですが、二カ月くらい経つと少し良くなってきて、布団から起き上がり、歩けるようになりました。そのうちに気づいたら半年が経っていました。
何事もなく一年が経過し、「もう治ったのかもしれないな」と思った矢先に、血便と血痰が出たそうです。堀江さんは「ああ、やっぱり治ってなかったんだ。一時的な小康状態だったんだ。ダメかもしれないな」と思ったと言います。すると奥さんが「お父ちゃん、それは良かったね。悪いものが出たのよ」と言ったそうです。それを聞いた堀江さんも不思議と「悪いものが出て良かった」と思えるようになったと言います。
その後は本当に良くなって血便や血痰も出なくなり、三年くらい経った時、病院でエコー検査を受けたところ、ガンがすっかり消えていたというのです。
この取材を受けた時、堀江さんは「これだけは川竹さんに言っておきたいのですが、この病気を治してくれたのは食事療法ではありません。治してくれたのは家内です。家内の心の支えがあって私は治ったのです。いやぁ、本当に家内はありがたいです」と言われたそうです。
本人の心の力や免疫力は大事ですが、やはり周りの支え、そして、周りの人の積む功徳によってそれが大きくなるのだと思います。
『週刊朝日』という雑誌に毎週、「平成夫婦善哉」という、仲の良いご夫婦のインタビューが載っています。ある週の川田龍平さんご夫妻のインタビューが私の目に留まりました。
川田さんは「薬害エイズ訴訟原告団」の中心になった人ですが、血友病という血の固まらない病気を患っておられます。この病気を患う方は、出血の際に血が固まるように血液製剤を投与します。その血液製剤にHIVウィルスが入っていたのです。
川田さんがHIVウィルスに感染したのは子どもの頃でした。ですから子どもの頃から、同じ境遇の人がエイズを発症して亡くなっていくのを何人も見て、“自分も多分長くは生きられないな”とずっと思っていたそうです。そこで、〝薬害や人為的なトラブルによって人が死ぬことは絶対に避けなければいけない〟と強く思い、「薬害エイズ訴訟原告団」の中に入りました。
川田さんは〝自分はいつ死んでもおかしくない。結婚なんかできないだろう〟と思っていました。また、相手を不幸にするかもしれないと思うと〝結婚をしてはいけない〟とも思っていたそうです。
ところが、ジャーナリストの堤未果さんと出会い、彼女に一目惚れをして、二回目のデートで早くもプロポーズをしました。その時の言葉です。
僕は今まで、自分の命は短いと思っていた。いつ死んでもいいと思っていた。でも、あなたに出会ってからは一日でも長く生きたいと思うようになった」
しかし、返事がなかなかもらえなくて、デートするたびにプロポーズをしたそうです。それがある時、未果さんの心に〝結婚しよう〟というひらめきがあって、プロポーズが受け入れられたと言います。
川田さんと結婚するにあたり、未果さんはある条件を出しました。
未果さんは以前、アメリカ同時多発テロで被害に遭ったニューヨークの世界貿易センタービルの横のビルに勤めていました。あのテロを間近で見て、人が大勢亡くなるのを目にした未果さんは“人はいつ死ぬかわからない”と強く思ったそうです。
そこで川田さんに「いつ死ぬかわからないけれど、とにかく私よりも一日でも長く生きること」という条件を出したのです。それと、川田さんが口癖のように言っていた「“自分はどうせ長くは生きられない”という言葉を今後、絶対に口にしないこと」も付け加えました。言葉は「言霊」とも言います。〝言葉には大きな力があるから、絶対に悪いことは口にしないでほしい〟と求めたのです。
そして「今日一日を大切に生きたいから夫婦喧嘩はしないようにしましょう。どうしても喧嘩してしまったら、必ずどちらかが家を出るまでに仲直りをしましょう。喧嘩をしたまま、どちらかが死んでしまったら、ものすごく後悔するから」とふたりは約束を交わし、結婚したのです。そして結婚後、健康状態が劇的に良くなったのです。
HIV感染者は定期的に、免疫状態とウィルスの量を計るそうです。
未果さんとの約束を大切にして、一日でも長く生きよう〟と誓った川田さんが、検査でウィルスの量を計ったところ、ウィルスが非検出になっていたそうです。免疫力を示すCD4という数値は、健康な人で700~1300で、HIV感染者は200を切るとエイズを発症するとされていますが、結婚してから1000近くになったそうです。時に、過労でぐったりしている主治医より高かったことがあるそうです。風邪も引かなくなったそうです。
奥さんの支え、また奥さんを大事に思う気持ちが免疫力を高めて、エイズウィルスを非検出にしてしまったのだと思います。
ここまではご夫婦のお話をしてきましたが、最後は友情のお話です。
今から五百年ほど前、ルネッサンスの時代に大活躍をした画家アルブレヒト・デューラーは、ドイツのニュルンベルクで生まれました。デューラーにはハンスという友人がいて、二人とも貧しい家の生まれでしたが、二人とも幼い頃から絵を描くのが大好きで、“将来は画家になりたい”という夢を持っていました。
二人は版画を彫る親方のもとで見習いとして働いていましたが、仕事が忙しく全く絵の勉強ができません。仕事を辞めて絵の勉強に専念しようと思いましたが、絵を習うには絵具やキャンバスや筆を買うお金が必要です。二人にはそんなお金はありませんでした。
ある時ハンスがデューラーに「このままでは二人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。しかし、僕に良い考えがある。一人ずつ交代で絵の勉強をしよう。一方が働いて相手のためにお金を稼いで助ける。そして、勉強が終わったら今度はもう一方が勉強するため、勉強を終えた側が働いてそれを助けるんだ」と提案しました。そして、〝どちらが先に絵の勉強をするか〟話し合いました。お互いが譲り合ったのですが、結局ハンスが言いました。
デューラー、君が先に勉強してほしい。君の方が僕より絵がうまいからきっと早く勉強が進むと思うんだ」
デューラーはその言葉に感謝して、イタリアのベネチアへ絵の勉強に行きました。そしてハンスは、お金がたくさん稼げる鉱山に勤めることになりました。
デューラーは、一日でも早く勉強を終えてハンスと代りたいと、寝る時間も惜しんで絵の勉強を続けました。一方、ハンスはデューラーのために朝早くから深夜まで重いハンマーを振り上げ、今にも倒れそうになるまで働いてお金をデューラーに送りました。
一年、二年と年月が過ぎて行き、そろそろデューラーの勉強も終わるかと思ったのですが、勉強すればするほどもっと勉強したくなり、なかなか終えることができません。ハンスは「自分が良いと思うまでしっかりと勉強してくれ。僕は大丈夫だよ」と手紙を書き、お金を送り続けました。
数年経って、ようやくデューラーはベネチアから帰ってきました。その頃には画家として腕を上げ、絵も売れるようになり、かなりの評価を得ていました。
故郷に帰ったデューラーは真っ先にハンスのところに向かいました。
今度は君の番だよ。長い間本当にありがとう。待たせたね。今度は僕が生活費を稼ぐから思う存分、絵を描いてくれ」
するとハンスは力なく笑い、首を横に振ったのです。
「おめでとう。本当に良かったね。でも僕はもうダメなんだ。炭鉱での仕事がたたって指が曲がってしまったし、手も震えて絵筆が持てないんだ」
デューラーはショックで「僕のために君は人生を棒にふってしまった。君を犠牲にしてしまい本当に申し訳ない」と震える声でハンスに詫びました。自分の夢が叶ったものの、友人の人生を台無しにしてしまったことで、デューラーは罪悪感に襲われる日々を過ごしました。
そして、“何か僕にできることはないだろうか”“少しでも彼に償いをしたい”と思い、もう一度ハンスの家を訪ねました。ノックをしても応答がありません。しかし、人がいる気配がします。鍵が開いていたので家の中に入っていくと、ハンスの小さな声が聞こえてきました。ハンスは炭鉱で働くことによって曲がってしまった指を合わせ、一心に祈っていたのです。
デューラーは私のことで傷つき、苦しんで、自分を責めています。神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。そして、私が果たせなかった夢までも彼が叶えてくれますように。あなたの守りと祝福がいつもデューラーとともにありますように」
デューラーは自分の耳を疑いました。
〝ハンスはきっと自分のことを恨んでいるだろう〟と思っていたのです。ところが、自身のためでなく、デューラーのために一生懸命祈っていたのです。歪んでしまった手を合わせ、一心にデューラーのために祈っていたのです。
デューラーはその祈りの姿を見て涙にくれました。そして「お願いだ。君の手を描かせてくれ。君のこの手のお陰で今の僕があるんだ。君のこの手の祈りで今僕は生かされているんだ」と懇願しました。そしてデューラーは、友情と感謝の心を込め、「祈りの手」という題の絵を描きました。
デューラーは非常にたくさんの絵を描き、多くの傑作を残しましたが、一番有名なのがこの「祈りの手」です。
人はいろいろな形で家族や友人、多くの人に支えられています。それに対する感謝の気持ちをいつも持って生きなければいけません。