先日、日本福祉大学付属高等学校の卒業式に出席してきました。
卒業式に出席するといつも自分の学生時代のことを思います。“もっと勉強しておけばよかった”と。ただ、勉強は学生時代だけでなく、大人になってからもできますし、ずっとしなければいけないことだと思います。
日達上人がよく「学ぶということは、いつ始めても早いということはないし、遅いということもない」と言われていました。日達上人に届いた直筆の年賀状に、ものすごく達筆の方がおられました。その方が百歳で亡くなってお悔みに行かれた時、日達上人がお孫さんに「おじいさんは本当に字がお上手でしたね」と言うと「はい、祖父は80歳になってから独学で字を習い始めました」と答えられたそうです。“そんな歳から始めても上達するものなのか”と日達上人は感心しておられました。学び始めるのに遅いということはないようです。
今回は「学ぶ」ということについてお話をしたいと思います。
心に残る学びの授業
学生時代の授業といえば、おもしろい授業もあればおもしろくない授業もありました。
放送作家の永六輔さんは戦争中ずっと疎開をしていました。疎開先の学校ではいじめもあり、楽しく学ぶことができませんでした。
そんな永さんは歳をとってから仲の良い作曲家の中村八大さんと、作家の有吉佐和子さんと3人で「学校ごっこ」(ボランティア授業)を始めたそうです。永さんの奥さんと中村さんと有吉さんは、海外の日本人学校の出身でした。今はどうか知りませんが、当時の海外の日本人学校の授業はあまりおもしろくなかったそうです。そこで子どもたちが楽しく学べるおもしろい授業をしようと、中村さんと有吉さんと組んで、海外のいろいろな日本人学校に「学校ごっこ」をしに行きました。日本航空に事情を説明したところ、航空運賃を無料にしてくれたそうです。
永さんは国語の授業をしました。それは「木偏の字を学びましょう。木は一本で『木』です。二つ並ぶと『林』です。三つ重なると『森』です。では木偏に『土』は何と読みますか?」というような授業です。
木偏に「土」も「もり」と読みます。そこで永さんが「同じ『もり』でも『森』と『杜』はどう違うと思いますか。『森』はたくさん木があることを表していますが、『杜』は、そこに神さまがいることを表しています。それで“鎮守の杜”というのです」と説明されたのです。
また「松、桃、柿、桂、杉、梅、楓というような字が木偏にはありますが、ピアノやバイオリンやチェロ、ベースなどの楽器は全部、楓の木でできています。どんな木よりも一番良い音が響くからです」と説明され、その後、中村さんがピアノを弾き、別の人がバイオリンを弾きました。いつの間にか音楽の授業にもなっていったのです。
「柏」という漢字を教える時は、「なぜ5月5日の端午の節句に、かしわ餅を供えるのか」という話になり、「柏の木の古い葉は、若い葉が大きくなるまで落ちません。若い葉が大きくなるのを見届けてから散るのです。“あなたたちが大きくなるまで、お父さん・お母さんがしっかり頑張ります”という気持ちが、かしわ餅には込められているのです」と、自然に道徳の授業のようになっていきました。
こんな話もあります。「あらゆる樹木は木偏である」という話をしたら子どもが質問しました。
竹はどうして木偏ではないのですか?」
そこで永さんが“待ってました”とばかりに「竹は木ではないのです。多年生の草なのです。でもとても草には見えませんよね。だから木でも草でもなく『竹』という新しい漢字ができたのです。だから植物を表す漢字には『木偏』と『草冠』と同じように『竹冠』という部首があるのです」と話されました。
そして、この後、「桐」という字について「桐も本当は多年生の草なのです。でも、木と同じように箪笥を作ります。つまり、木と同じ働きをするから、“木偏に同じ”と書くのですよ」と話されたのです。今まで漢字が苦手だった子どもたちも目を輝かせ、授業はどこでも大好評だったそうです。
永さんの話から、以前読んだ『伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力』という本を思い出しました。灘校の国語教師であった橋本武先生は教科書を一切使わず、中勘助の小説『銀の匙』を中学3年間かけてじっくり読み込むという授業法で、実際に、小説の中で登場した凧揚げや、百人一首でかるた会を授業時間に行うなど、横道にそれることによって、子どもたちに学ぶ楽しみやおもしろさを教えられたのです。時には小説に出てきた駄菓子を皆で授業中に食べることもあったそうです。この授業の始まりとともに、灘校は全国屈指の進学校になっていったそうです。
子どもの読書が未来を創る
昔から日本人は教育熱心でした。江戸時代には「寺小屋」が日本全国に無数にありました。そのお陰で日本は欧米列強の植民地にされなかったという説があります。識字率が高く、民度(人々の文化の程度)が高い民族だから、日本は征服されずに自主独立を守ることができたというのです。
「今の寺子屋は本屋さんだ。昔は寺子屋の多さが日本人の知的レベルの高さを表していた。今は本屋さんの数がその国の民度を表している」と言う方がいます。
日本の本屋さんの数は世界一です。しかし、残念なことに本屋さんの数は年々減っています。1999年に日本の本屋さんは2万2千店ありました。全国津々浦々、小さな村にもありました。外国人が日本に来ると“こんなところにも本屋さんがあるのか”とびっくりしたそうです。それが去年の段階で1万3千店になってしまいました。17年程で1万店くらい減ってしまったということです。Amazon(アマゾン)のようなインターネットの書店が発展することによって、本屋さんの数が減ったのだそうです。
インターネットで本を注文すると、早ければ次の日には送料無料で届くので大変ありがたいです。また、たびたび利用していると、自分の好みの本をメールで紹介してくれるようにもなります。非常に便利ですが、これがあまり良くないのだそうです。“本屋さんに行き、本を選んで買ってくるのが大事だ”ということのようです。確かに本屋さんで本を手にとって選ぶのは本当に楽しいことです。
最近、フランスでは“アマゾンのようなオンライン書店での無料配送を禁止する”という法律ができたそうです。ちなみにフランスには、約3500店の本屋さんがあります。イギリスは1000店くらいですからその多さは一目瞭然です。フランス人は自国の文字文化を守るために、法律でオンライン書店での無料配送を禁止したのです。思い切ったことをしたものです。
イギリスの首相をされたブレアさんは「七歳の児童たちの読書量が将来の世界におけるイギリスの地位を決める」と言われました。「どれくらいきちんと子どもたちが本を手にとって読むかによって、その国の将来が決まる」というわけです。
人間学のススメ
昔の人は『論語』や『大学』などの四書五経を読み、勉強しました。明治天皇の侍講を務めた漢学者・元田永孚は「学びて時に之を習う。亦説ばしからずや」という有名な言葉を捉えて、「論語二十篇の大旨、この『学』の一字なり」と言っています。要するに“人間は学ぶことが大事”というのです。
続けて言います。「この学あれば、その天職を全うする。この学なければ、その天職を失う。この学達すれば、聖人となり、この学達せざれば庸愚となる。この学明らかなれば、天下平らかに、この学明らかならざれば、天下乱る。人間、天下万事の成敗、ただこの学の明暗にあるのみ」
つまり、“人間が成功するもしないも、よく学んでいるか学んでいないかの差によるものだ”ということです。
この『学』とは『論語』とか『大学』に説かれる人間学です。“人として生まれてどう生きるべきか。その立場に立つものとしてどうあらねばならないか、ということを学べば、人生で間違えることはない”ということを言っているのです。こういうことを私たちは読んだり聞いたりしても、また、学ぶことの大事さを知りながらも「忙しくて勉強をする時間がない」とか「本を読むまとまった時間がとれない」と弁解してしまうことがあります。しかし、世間を見ると忙しい人ほどよく勉強をしているものです。
吉田松陰の学ぶ姿勢
明治維新の立役者のほとんどが吉田松陰の弟子でした。吉田松陰は若くして亡くなっていますが、大変立派な人物でした。安倍総理が以前「私の故郷では、先生と呼ばれる人は吉田松陰先生ただ一人だけです」と言われていました。それくらい今の山口県(昔の長州)では吉田松陰を敬っているということです。その吉田松陰の書いた武士の心得『士規七則』の中に「人、古今に通ぜず。聖賢を師とせずんば、即ち鄙夫のみ。読書尚友は君子の事なり」とあります。「読書を通じて古今の聖賢を師として学ばなければ卑しい人間になってしまう」ということです。
安政元年3月27日、伊豆の下田にアメリカの軍艦がやってきました。非常に向学心・冒険心に富んだ吉田松陰は、金子重之輔とともに乗り込もうとして、役人に捕まり、牢屋に入れられました。一夜明けて松陰が役人に「昨夜、行李が流されてしまい、手元に本がないから、何かお手元の本を貸してくれませんか」と頼んだそうです。もちろん本といっても小説などではなく、学問をする本です。役人が驚いて「お前たちは大それた密航をたくらみ、こうして捕らえられて獄の中にいるのだ。どうせ重いお仕置きを受けるのだから、こんな時に勉強をしなくてもよいのではないか」と言ったそうです。これに対して松陰は「ごもっともです。それは覚悟しておりますが、自分がお仕置きになるまでにはまだ時間があります。それまではやはり、一日の仕事をしなければなりません。人間というものは、一日この世に生きていれば、一日の食物を食らい、一日の衣を着、一日の家に住む。それであるなら一日の学問、一日の事業を励んで、天地万物への御恩に報いなければなりません。この義が御納得いただけたなら、是非、本をお貸しいただきたい」と言うので、役人はこの言葉に感心して松陰に本を貸したといいます。松陰はその本を手に取って金子に「金子君、今日この時の読書こそ本当の学問である」と言ったそうです。
この話は、渡部昇一先生の『人生を創る言葉』という本に出ています。渡部先生もこの話に非常に感動され、「牢に入って刑に処せられる前になっても、松陰は自己修養、勉強をやめなかった。無駄といえば無駄なのだが、これは非常に重要なことだと思うのである。人間はどうせ死ぬものである。いくら成長しても、最後には死んでしまうことに変わりはない。この“どうせ死ぬのだ”というわかりきった結論を前にして、どう考えるのか。松陰は、どうせ死ぬにしても最後の一瞬まで最善を尽くそうとした。これは尊い生き方であると思う」と付記されています。見習わなければいけない心構えです。
最後まで最善を尽くす
PHP』という月刊誌の最初に「生きる」という題の、一般の方の書かれたエッセーが載っています。昨年12月号のそれを読んで大変感動しました。書かれたのは小森ちあきさんという50歳の女性です。
12年前にご主人が若くして重い「くも膜下出血」を発症し、全く言葉を発しない植物人間状態になったそうです。一時は死を覚悟するほどだったのですが、病状が安定して一般病院に転院をすることになり、その転院先の病院でのお話です。
小森さんは、ご主人の看病をしている時、まったく会話がなくつらいので、たまに談話室に行って、みんなの話し声を聞くだけで癒されていたそうです。
「その談話室で、談笑の輪から少し離れた窓際の席に、有名大学の入試問題集を片手に勉強に励む青年がいた。その前向きな姿から力をもらい、再び病室に戻るのが私の日課だった。年内はもたないと言われた主人だったが、何とか年を越すことができた。
元旦、病院についた私は主人の病室に行く前に談話室に直行した。道すがら出会った人々が新年の喜びに胸を弾ませている様子が無性に恨めしく、そんな卑屈な気持ちで主人に会いたくはなかったからだ。談話室は無人だった。私は窓際の席に座り、晴れ渡った空を仰いで、心に立ち込めた暗雲を必死で消し去ろうとしていた。ふと気づくといつもこの席で勉強をしている青年が立っていた。席を譲ろうとする私に青年は『いいですよ』と幼さの残る笑みを浮かべ、別の席に座った。『お正月まで受験勉強えらいね』と声をかけると、彼は『頭が悪いからね』と冗談交じりに答えた。聞けばまだ高校2年生だが、入退院が多いため受験勉強を始めているという。家が元旦から商売をしているため外泊をしなかったそうだ。
誰の見舞いかと聞かれ、私は主人の病状を話した。『年を越せるとは思っていなかったの』とため息交じりにつぶやくと、青年は急に表情を曇らせた。そして『本人が必死で生きようとしているのに家族があきらめてどうするの』と厳しい口調で言った。意表を突かれた私は動揺を隠せず、それを見た青年は慌てて謝罪の言葉を述べた。そして、自分は医者から余命半年と言われているが、医者になるという夢を病気なんかのためにあきらめたくはないから、命尽きるまで努力し続けるのだと強い口調で語った。『人生は死ぬか精一杯生きるかだよ。悲劇の真似ごとをしている暇はないからね』そう言って青年は去って行った。
私は電流が全身を流れるような感覚を覚えた。微笑みようもない状況だが、青年に暗さは微塵も感じられない。無慈悲に襲いかかる宿命に対して、彼はきっと悲嘆の道を死に物狂いで走り抜け、受容し、そして挑戦へとたどり着いたのだろう。無駄と知りつつも未来を見つめ、熱心に何かに取り組むことができるかどうか。それが人生の質を決めるのだと私は青年の生きる姿勢から教えられた。
私は急いで病室に行き、主人の胸に手を当てて、鼓動を確認した。青年が言った通り主人は精一杯生きていた。私は白旗を上げかけていたことを反省した。たとえ望む結果が得られなくても、今自分にできる最善のことをしたい。そう考え、主人の人生の最終章を笑顔で飾ろうと決心した。
その後も談話室で青年を見かけたが私からは話しかけなかった。青年の残された時間を奪う権利は私にはないと考えたからだ。笑顔で会釈を交わす。それだけで十分心が通じ合ったように感じていた。談話室に集う患者から青年の不撓不屈の精神に多くの患者が触発され、前向きに治療に取り組むようになったと聞いた。病人にとって最良の薬は希望だ。それを患者たちに処方した青年は既に立派な医師だと私は確信した。
まもなく主人の再転院が決まった。最後に青年に会い、『あなたは既に立派なお医者さまね』と言うと彼は『何のこっちゃ』と屈託のない笑顔を見せてくれた。
3カ月後主人は静かに46年間の人生の幕を下ろした。穏やかな表情だった。青年の消息はわからない。けれど月日が経つほど私の心の中で青年の存在が輝いてくる。強き一念から発せられた言葉は今も私の胸中に刻み込まれ彼の魂を蘇らせる。青年は私の心の主治医として、永遠に生き続けるだろう」
今の時代にも吉田松陰のような人がいるのです。命のある限り学び続ける。徳を積み続ける。心に銘さなければいけません。