自分のできることで徳を積み人を喜ばせていきましょう

掲載日:2013年8月1日(木)

御開山上人のこと命ある限り徳を積む

今から51年前、御開山上人は昭和37年6月7日に昔の立花高校(現在の日本福祉大学付属高校)でご遷化されました。6月5日に立花高校へ行かれた時に脳卒中で倒れられたのですが、それまで東京、大阪、安城と3回同じ発作に襲われていましたから、お庫裡様や周りの方が「大事なお体ですから、少しは体を労って休んで下さい」と何度言われても、その都度「休んでいては生きている意味がない。

徳を積まなければ生きている甲斐がない。私が行くのを皆さん待っていて下さる」とおっしゃって一心に働かれました。“精一杯生きて、その途上で倒れても本望だ”というお気持ちがあられたのだと思います。世間的に見れば61年の生涯は決して長くはありませんが、悔いのない、菩薩としての人生を歩まれたと思います。

  天の知らせ

御開山上人が倒れられた6月5日、鈴木慈学上人が一宮支院での法座を終え外に出て空を見上げると、北東から南西の方角に変な鱗雲が流れて行くのが見えたそうです。信者さん達は「変な雲が出てますなぁ。

これは鰯でもたくさん取れるんじゃないですか」と言っていたそうですが、慈学上人は「これは偉い方が亡くなる前兆だ」とおっしゃられたそうです。御開山上人が倒れられたことはその場にいる人は誰も知りませんでしたから、どなたも「天皇陛下でも亡くなるのだろうか」と思われたそうです。

  皆さんに支えられた日本福祉大学

当時、日本福祉大学の財務状況はとても悪く、毎年、年を越すのも大変でしたが、昭和37年だけは銀行に借金しなくてもよかったそうです。それは、御開山上人の香典がたくさん寄せられたからでした。

とにかく大変な財政難でしたが、それでも大学の先生の待遇は国立大学の教授並で、学生の授業料は国立大学の学生並の安い授業料でやっておりましたのでさらに苦境に拍車がかかり、お寺のお金をどんどん持ち出して大学の為に使っていました。

大学だけでなく昭徳会も大変でしたが、御開山上人のなされるお仕事に対して、当時の信者さんが心からご支援下さったのです。そのおかげで、大学も昭徳会も成り立っていました。

  御開山上人と親のない子どもたち

御開山上人は御法話で過去を振り返り、こんなお話をされています。

「昭和6年に生の松原から名古屋に帰り、親のない子を育てる仕事をしました。昭和8年に『子どもを虐待してはならない』という法律が出来たわけでありますが、その頃、生活難でサーカスに売られていた子どもが本部の施設に13名いました。その中には、継子いじめにあって体中に36箇所も傷のある子がいました。

歯も半分位が一本ずつ折られてしまった3歳位の子や、手足を毎日叩かれて、黒染みになってしまっていた子もいました。この御宝前にはそういう子はおりませんが、世の中にはそういう子がいるものですよ。

終戦直後には、戦争で親も兄弟も家もなくした浮浪児を120名預かり、現在は350名の子ども達の面倒を見ております。そういう子どもをお世話するうちにようやく、本当の法華経の心を知ることができました。杉山先生の言われたことに間違いはなかったことが解り、本当にありがたく思っております」

私が生まれた昭和36年頃のご法話ということです。

  5つの方針

350名もの子どもの面倒を見るのは本当に大変だったと思いますが、そのための手段として5つの方針を定めておられました。

一つ目は、「食糧は職員が配給するのでなく、当番に任せ、当番の子は相談の上、大きい子、中くらいの子、小さい子と三段階に分けて分配する」

二つ目は、「子ども達の人格を尊重し『○○くん』『○○さん』と呼び、良い言葉を使うようにする」

言葉使いは人格を表わします。これはとても大切なことです。また、少しでも家庭の雰囲気を味わわせようとされたのか、ご自分のことを「お父さん」、保母さんのことを「お母さん」と呼ばせるようにしておられました。

三つ目は、「よく働き、正直な人は社会から尊敬されることを教える」

四つ目は、「叱る前に子どもの長所を褒め、その後で注意する。命令はできるだけやめて、協力させるように指導する」

特に、叱るとか体罰ということを戒められました。保母さんの集まりの時「言うことを聞かない子には体罰を加えた方がいいのではないか」という意見がありましたが、御開山上人は「絶対に体罰はいけない。体罰で良くなった子は一人もいない。とにかく褒めなさい。褒めることがなかったら何かをさせて褒めればいい」と言われました。

五つ目は、「向上箱を作り、子どもに他人の良いところを気づいたらそれを書いて入れさせ、希望を持たせるように指導をする」

その向上箱を月に一度の誕生会で開けて“○○くんはこんな良いことをした”と表彰し、それを見つけて書いた子にもごほうびをあげられました。これが大事だと思います。

私の中学生の時、担任の先生が向上箱とは逆の「悪かった子の名前を書く」ということをしました。女の子は書かないようにとの配慮がなされてはいましたが、悪かったと書かれた子は教室の一番前に一か月座らされました。

「悪い子の名前を書く」ということは、人の悪い所を探すということです。四六時中、人の悪い所をお互い探し合うのですから、たまりません。良いところがあっても見えなくなってしまいます。

御開山上人の向上箱は“良いところを見つけた人も褒められる”という所が素晴らしいと思います。「絶えず良いことをしよう。人の良い所を見つけよう」ということになります。

  御開山上人の心配り

日本福祉大学で学監(学長代理)を務められた堀要先生が、御開山上人と子どもたちとの心のふれあいについてこんなことを言われています。

「その当時(終戦直後)、嫌な言葉であったが『浮浪児狩り』が名古屋駅で何回も行なわれた。修学上人は実に子どものことがわかる人であった。収容された子ども達は、しばらくは落ち着いているが、そのうちなんとなくそわつきが見えてくる。そういう子どもをすかさず伴って名古屋駅へ出かけ、人通りのよく見える所で子どもと一緒に腰を下ろし、通行人を見物する。通行人の中にはもちろん浮浪児の姿も見える。しばらく座りこんだ後に、その人たちの姿を子どもに指し示して『どうだね、もう一度あの人たちの仲間に戻るかね』と話しかける。

反応は子どもによっていろいろであるが、しばらくして『もう帰ろうか』と声をかけると、子どもはすっかり元気になり、喜び勇んで一緒に帰ってくる。それからは本格的に落ち着くようになった。このように、修学上人にはするどい洞察力と子どもに対する温かい配慮があった。修学上人と子ども達の心のふれあい、心の通じあいの素晴らしさ、これは、人間の心の美しさそのもののように私の胸に染み込んでいった」

堀先生の観察力に頭が下がります。

  御開山上人の信念

戦後、戦禍に遭っていろいろな施設が立ち行かなくなり、子どもたちの環境はさらに悪化していました。今、昭徳会が経営している名古屋養育院も、焼け落ちて運営ができなくなり、昭和21年の春、御開山上人に支援を求めて来ました。御開山上人は無条件にその申し出を受け、まず建物の修繕に取りかかられました。この時、学生であった日達上人も手伝いに駆り出されたということです。

養育院を引き受けられた後には「八事少年寮」の運営も引き受けることになりました。これは現在の小原学園・小原寮となっています。知的障害児の施設です。

八事少年寮は、名古屋大学医学部の教授、杉田直樹博士が自分のポケットマネーで運営をしておられた施設です。杉田博士が定年で東京に帰ることになったので、後のことを愛知県に頼みに行ったのですが、「予算もないし、前例もないのでできません」と断わられました。杉田博士はがっかりされましたが、受付の方から「あなたの所のすぐ近くに昭徳会という団体があります。

そこの鈴木修学さんという方にお願いしたら多分引き受けてもらえますよ」と言われました。杉田博士は早速御開山上人に事情を話しに来られました。御開山上人はこの時も養育院の時と同様に二つ返事で「わかりました。お引き受けしましょう」と言われました。

愛知県にお金がないのに御開山上人にあるわけがありません。そこで境内地を切り売りされて資金を作られました。その後、今で言う「授産所」や「養護学校」も作られました。御開山上人は「人間はどんな子どもでも教えれば良くなる。だから教育をしなければならない」という信念を持っておられたのです。

そして「人間は働くことによって喜びを得ることができる。これはどんな人でも同じだ」という方針で、子ども達に仕事を覚えさせました。日本福祉大学や立花高校で使われた机・椅子の多くは、八事少年寮の子ども達が作ったものでした。

そういう子ども達を育てながら「専門家の育成が大事だ」ということを思われ、日本福祉大学を創立されたのです。最初、当時のお金で1500万円程の補助金が国から出る予定でしたが、自衛隊の前身である警察予備隊が作られることになり、そちらにお金がかかるということで大学の補助金はなくなってしまい、全額法音寺が負担することになりました。

御開山上人は生涯お金に苦労をされましたが、それ以上に大きな徳を残されました。そのおかげで今では法音寺も昭徳会も日本福祉大学も大いなる発展を遂げています。もちろん先師と共に協力して下さった檀信徒の皆さんのお力によるところも大であると心から感謝をしております。今後とも一層のご協力、ご支援をよろしくお願い致します。