心の垢を取り三徳の修養に励みましょう

掲載日:2014年4月1日(火)

心の洗濯  心の制御

村上先生の御法話集・第一巻に『心の洗濯』というお話があります。少し読んでみます。

「大昔は心のことをコロコロと言ったそうですが、語調が悪いので中間のロの字を抜いて現在の『こころ』としたものだそうであります。

お互いに持っている心は、手に取って見ることは出来ません。見ることが出来なければ無いかと思えば、種々様々のことを思っている、それが心であります。その心は、事に付け、折に触れ、その触れるものの善悪を問わず、その触れたる物に誘われてコロコロと働くのであります。

いわゆる朱に交われば赤くなるの譬もそれから出て来ます。古歌にも『こころこそ こころまよわす こころなれ こころにこころ こころゆるすな』とあります。また王陽明は『山中の賊を平らぐるは易し。心中の賊を平らぐるは難し』と言っておりまして、全く油断のならぬものは心であります。

この心が善に働けば、わが身は現在も未来も幸福を得、安楽を得るのであります。これに反して悪に染まって働いたならば、実にこの身を永遠の苦しみに導くのであります。故に何人も常に心を正しうして事に処することが肝要であります」

心というものはコロコロと動くもので、お釈迦さまも制御することのむつかしさを馬や猿に例えられ、「心を主とせざれ。心の主となれ」と言われました。心が動くことによって欲望が生じ、その欲望に肉体が動かされていいことにならないのです。身近なところで言いますと、酒・ギャンブル・煙草などを簡単に止めることが出来ないことが一例です。ですから、仏道修行の根本は心を制御することが何より大事だと言われるのです。

続けて村上先生は「宗教の信仰と言うも、ただこの一つの心を正しくするをもって目的とする」とおっしゃっています。信仰は心を正しくする、つまり、心を磨き、修養することが根本の目的であるということです。

村上先生は杉山先生の門に入られて、修養生活を始められました。そして、法華経の奥義が知りたいと、杉山先生と共に断食・水行などの修行を三年間されました。今の私に近いお年だったと思います。当時のことを「県下知多郡阿久比村臥竜山において一か年半、引き続いて西加茂郡藤岡村柿野の山奥にて一か年半、都合三か年苦行を致しました。ある日のこと、誰言う者もなきに私の耳に『汝はすでに満三年間水行を成せり。この三年間の水行に依りていかなる効果があったか。いかなる悟りが出来たか今日限りやめるがよかろう』と聞こえました。

この言葉を聞いて考えるに、私は三年間一度も湯に入らず水行に精進したが、なるほど諸天善神の仰せの如く、何の得るところもなかったのです。そこでさらに悟りを開かんと沈思黙考したのでありましたが、その時また声があって『汝は棺桶を作ってその中に入って考えよ。しかし、棺桶に入ったら世の人は汝を狂人と言うであろう。棺桶に入ったつもりで押し入れに入って考えよ。水行するのは魚のまね。魚は水の中に住みて水を離るれば死するのだ』と聞こえました。この言葉を聞いて水行はぷっつり止めてしまいました。そうして、諸天の仰せの如く、棺桶に入ったつもりで考えました。かくして数日を経て、悟りました」と言われています。

悟りの内容は「今のこの人間である境涯を喜び、感謝し、人に慈しみの心を以て善根功徳を積むことが法華経の真理である」ということです。

   バラモンの修行

これは原始仏典に出てくるお話です。お釈迦さまも水行・断食などの苦行を六年間されましたが、悟りを開かれた後は、苦行を一切否定されました。それでも当時のバラモンと呼ばれる修行者たちはいろいろな行をしていました。その一つに、ガンジス河での沐浴があります。

ある時、一人のバラモンが寒さに震えながらガンジス河で沐浴をしていると、そこに女性出家者のプンニカー尼が通りかかり、問い掛けました。

「何をしていらっしゃるのですか?」

「わかっているくせにあなたはそんなことを尋ねる。沐浴することによって過去世の悪業を洗い流しているのだ」とバラモンが答えるとプンニカー尼は次のように批判しました。

「魚や亀やワニやカエルは生涯、水につかりっぱなしです。と言うことは、それらの生き物は我々より解脱しているはずですね。それなのに、畜生として人間より低く見られているのはなぜでしょうか。あるいは、水には何が善業で、何が悪業かを判断する能力があるのでしょうか。どうぞお風邪をひかないように頑張ってください」と声をかけて去ろうとすると、それを聞いてバラモンは悟り「私もあなたの師匠のところへ連れて行ってくれ」と言って仏教に帰依したということです。

またバラモン教には「ホーマ」(護摩)という火を焚く儀式がありました。これもお釈迦さまは迷信として否定されました。火の中に動物を生贄として入れたり、牛乳やバターを入れたり、穀物などいろいろなものを入れて焼くのです。その煙が天上に上って行くと神様の所へ届き、供養になると信じられていました。それに対してお釈迦さまは“そんな殺生はするものではない”と戒められたのです。

もう一つ、バラモンは火を焚くことによって、過去世からの穢れや罪障が消滅されると信じていました。それに対してお釈迦さまは「火によって穢れがなくなるというのなら、朝から晩まで火を燃やして仕事をしている鍛冶屋さんが一番穢れが少なくて解脱しているはずである。それなのにカースト制度では最下層に位置づけられているのはどうしたわけであるか」と批判しておられます。大変道理にかなったお言葉です。

   迷信を絶つ

これ以外にもお釈迦さまは、星占いや姓名判断を否定されています。名前によって人の運命は決まるものではないという考えです。村上先生も『迷信を絶つ』という御法話(御法話集・第二巻)の中で言われています。

「この頃私に次のように申して来られた方がありました。『姓名判断で調べてもらって名前を変えました。どうも変えても一向に善き事がないから別の姓名判断に見てもらったところ、かえってよろしくないということなので、また変えましたが、何も変わりません。そこでこの姓名判断に疑いを生じました。これはどういうものでしょう』とのことでしたが、これも一つの迷信であります。

姓名も、聞いてあまりに悪い感じを抱かしめるようなものは、呼びよくて善い感じの名前にするのはよろしいが、単に名前によって幸福を得たいということは迷信であります」

悪い感じの名前で思い出しましたが、以前、自分の子どもに『悪魔』と付けた人がいました。区役所の方が「こんな名前は受け付けられない」と受け付けなかったそうです。

神戸支院の田中上人は昔、小学校の先生をしてみえました。その田中上人が「正修上人、昔すごい名前の生徒がいました。『ひろひと君』というのです。昭和天皇と同じ名前ですからびっくりして、父兄参観の時にその訳を聞いてみたら、お父さんが『子どもに立派な人になってもらいたい』と思い、天皇陛下と同じ名前をつけたそうです。でも、恐れ多いので一画だけ減らしたそうです」と教えて下さったことがありました。

去年もお話ししたことですが一宮支院の伊藤先生は昔、薫さんという名前でした。村上先生に付けて頂かれた名前ですが、当時、一宮に姓名判断にこってみえる方がいて、薫という名をその先生の所に持って行ったそうです。すると「この名前は短命だ」と言われました。それではいけないとみんなで“もっと長命な名前に変えて頂こう”と話していたところ、慈学上人が来られました。

そこで「もっと長命な名前に変えて頂けるように村上先生にお願いしてもらえませんか」と伺ったところ、「それはいかんな。村上先生にお願いしよう。短命な名前はいけないから、絶対に死なない名前を付けて頂こう」と言われたそうです。そこで皆さん “名前にこだわってはいけない。村上先生に付けて頂いた名前を尊く頂かないといけない”と悟ったそうです。

村上先生は「迷信」を、お釈迦さまのように徹底して否定されたのです。

   六波羅蜜の実行

仏教感化救済会の頃は、信者さんが講日にいらっしゃると、その方の六波羅蜜の修養程度を調べたそうです。十日間に六波羅蜜をどれくらい出来ていたかを点数化したのです。その方法は杉山先生が天眼で洞見されて「あなたは布施が何点だった。堪忍が何点だった」と、その合計点を出し、天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界の四段階に分けて教化されたのです。この四つの界の意味ですが、天上界はいいように見えてよくありません。「未だ妙法のありがたきことの判別の暗い人」です。

声聞界は「善きこの御法の教訓を一言も聞きもらさず聞いて、自分の修養の糧にしたいと一生懸命聴聞している人」で、縁覚界は「飛花落葉を見て、世の無常を感じると言うが如く、悟りの善い人」です。例えば人から悪口を言われても自分の罪障だとすぐに覚って反省する人のことです。菩薩界は「その人の慈悲心はことに深くして、罪障のために苦しむ人には自己の積みたる功徳をも与えて苦しみを抜き、楽を与えんとする慈悲に富む人」であります。

当時のことを知っておられる方に聞いたのですが、菩薩界と言われたいと思って十日間一生懸命頑張り、期待をして行くと、だいたい下の方を言われたそうです。ところが「いかんなぁ。今回はダメだろうな」と思って行くと、意外に上だったことがあったそうです。杉山先生はその人の心の内をよく見抜かれていたのです。

村上先生ご自身も毎日、この六波羅蜜を反省しておられたということです。布施に関して「貪るの心はなきや否や。施しの心はいかがであろうか」。持戒に関して「菩薩としてこの娑婆世界に出世したる目的に反する動作は無きや否や。人を喜ばすことをわが喜びとしているや否や」。忍辱に関して「腹立つことは無きか」。精進に関して「良き道に進むに当たり、倦怠の心が起こりはしないか」。禅定に関して「心は善道に定まりて、決して動くようなことは無いか」。仏智に関して「事に処して偏頗なく、自他平等に利益を受ける心はいかに」といったように毎日、六波羅蜜に関してご自分で心と行ないを点検されたのです。

そして、慈悲の心が欠けると悪寒がしたり、またご飯が美味しくなくなったりしたと言われます。持戒の心が欠けると、自分の考えたこと、成すことがなかなかうまくいかないから、その時は自分の使命と思い心を改めたと言われます。また、堪忍が出来ていない場合は急に熱が出て顔がぽかぽか温かくなってくるから「ああ、堪忍が欠けているな」と分かったそうです。このように、体に異常が現われることを諸天の擁護である、とおっしゃってみえます。

村上先生のように日々の行ないを毎日反省し、心を正しくしていけば、極楽は必ず目の前にあらわれて来ます。村上先生を範として日々の心の垢を取り、三徳の修養に精進して参りましょう。