目連尊者のこと 舎利弗尊者と目連尊者
舎利弗尊者と目連尊者は、お釈迦さまの特別なお弟子さんで、たとえて言えば右大臣、左大臣のようなお方でした。お釈迦さまの代わりにお説法をされることもあったそうです。
目連尊者はお釈迦さまのお弟子になって一週間で悟りを開き、一切の煩悩を断じきった阿羅漢となりました。舎利弗尊者は二週間であったと言われています。このことを聞くと、目連尊者の方が偉い人のように思いますが、教典を読むとそうではないようです。目連尊者と舎利弗尊者を比べたことがいろいろな経典に書いてありますが、そこではほとんど、舎利弗尊者が上に書いてあるのです。
その理由は、目連尊者は神通第一、舎利弗尊者は智慧第一と言われていますが、神通力より智慧の方が上ということなのです。仏教では、特別な力を得るより正しい智慧を持つこと、真理を知ることの方が大事であるということです。裏を返すと、神通力を得るより、真理を知ることはむつかしいということなのです。
目連尊者の神通力
ある日のこと、目連尊者が瞑想をしながらニコニコしていました。舎利弗尊者が声をかけると「今、素晴らしいお方のお話を聞いていたんだ」と答えました。「素晴らしいお方とは誰だね」と問うと「お釈迦さまだよ」と言うので、舎利弗尊者が「お釈迦さまは今、遠くの国で説法をしていらっしゃるはずだ。どうしてお釈迦さまのお話を聞くことが出来るのだ。そうか、お釈迦さまが神通力で君の前に姿を現わされたのか」と再び尋ねると、「いや、違う。私は神通力を得ることが出来たんだよ。その神通力で、遠くの国で説法をしておられるお釈迦さまのお姿をまざまざと見ることが出来、そして、そのお説法を聞くことも出来たんだ」と答えました。それを聞いた舎利弗尊者は驚き、感心したということです。
目連尊者は神通力を使っていろいろなことをしました。お釈迦さまの説法の座を邪魔しに来た人を、神通力でその人の心や姿を見て排除したこともありました。
ある日、若い女の人が〝お釈迦さまに妊娠させられた〟と言って、大きなお腹でやって来ました。みんな驚きましたが、すぐに目連尊者が神通力で、大きなザルを紐でくくり着物の下に隠していると見抜きました。そこで神通力でネズミを使わして、その紐を切らせました。するとそのザルが落ちて、女性は恥をかいて逃げて行ったということです。
こんなお話もあります。コーサラ国という、非常に貿易が盛んな国がありました。当時は商人を襲う賊が多く、みんな困っていました。そんな商人達は、賊に襲われそうな時に目連尊者を念じたそうです。お釈迦さまではなく「目連さまお願いします」と念じたのです。すると賊から身を守られたそうです。われわれのよく知っている、観音さまのような力を有していたのかも知れません。
神通力ではどうにもならない因縁
ある時、目連尊者がお釈迦さまと布教に行った村が飢饉で苦しんでいました。土地は干上がり、何も採れませんでした。そこで目連尊者が「私の神通力でこの土地を作物のたくさん出来る、肥えた土地にしましょうか。神通力でこの村の人達が豊かに暮らせるようにしましょうか」と言うとお釈迦さまは「しなくて良い。無駄なことだ。こうなったのはこの村人達の心と行ないによるものだ。だからいくら神通力で変えても、その因縁を変えない限りまた元通りになってしまう」とおっしゃり、通り過ぎられました。その村の人々は、お釈迦さまの話を聞いても心から信じられない人達だったのです。「縁なき衆生は度し難し」ということなのでしょう。
釈迦族の因縁
お釈迦さまの生国がコーサラ国に滅ぼされるということがありました。その時お釈迦さまは、コーサラ国の王が攻めてくる街道に三度立って止められました。しかし四度目にはお釈迦さまはそこに行かれませんでした。その四度目の時、目連尊者が「私の神通力で釈迦族の国に大きな鉄のかごをかけて守りましょうか」と言いましたが、お釈迦さまは「そんなことをしても釈迦族の人達が作った因縁は消滅出来ない」とおっしゃって、止められました。
その因縁とは……コーサラ国にプラセーナジット王という方がいました。コーサラ国は釈迦族からすれば身分の低い国でした。しかしその当時、大変大きな力を持っていました。王には奥さんが何人かいたのですが、その中の一人に、高貴な民族である釈迦族の女性を入れたいと釈迦族に申し入れをしました。
釈迦族の人達は相談をして「あんな国に釈迦族の本当の血筋の女性をやるのはもったいない」と偽って奴隷階級の女性を送りました。そんなことを知らない王はその女性を第一王妃にして、とてもかわいがりました。その二人の間に生まれた子どもが成長すると、王は釈迦族の国に留学させました。王子は留学生活を送りながら「何か違うな。何か自分への待遇が良くない」と感じていました。
ある日、公会堂で大きな式典がありました。式典後、王子が座った椅子を、奴隷階級の人間が牛の乳と水を混ぜたもので清め始めました。インドの人達にとって牛は聖なる生き物です。その乳も聖なるものです。聖なるものによって汚いものを清めようとしていたのです。〝奴隷階級の女性から生まれた子どもが座った椅子は清めなければ〟と、そうしていたのです。それを見た王子は激怒すると同時に、自分の出生の秘密を知りました。そして「あの牛の乳で清められた椅子を、将来自分が王になったらあいつらの血で清めてやる」と復讐を誓いました。
そして、王子が王になった時、釈迦族の国を攻めたのです。三度まではお釈迦さまが止められましたが、四度目は「もうこの因縁は変えられない」と止めることをせず、滅ぼされてしまうのです。
「仏の顔も三度まで」と言われるのは、こんなことがあったからです。
しかし、因縁は怖いもので、釈迦族を滅ぼした王はそのすぐ後に雷に打たれて死んでしまいます。これが因縁の繰り返しということです。因縁のままいくとそうなってしまうということが教えられているのです。
因縁を変える
目連尊者が餓鬼道に落ちた母親を救ったというお話は皆さんよくご存知だと思います。餓鬼道に落ちるような大きな罪を作ったお母さんを、目連尊者が徳を積むことによって救うことが出来、それ以前の先祖をも救うことが出来たという、罪障と功徳のお話です。因縁通りにいけば、罪障はどんどん大きくなってろくなことになりませんが、得を積むことによって消滅することが出来、変えることが出来ると教えられているのです。
大正の初め頃のお話です。杉山先生は「汝は五月の頃、盲目となる」という天耳を得られました。杉山先生が「何の因果にて盲目となるのですか」と天に聞かれると「汝は過去に於て弓の名手にて、戦争の時に敵の目を射たのである。その因により数百劫のあいだ、盲目となるべきはずであるが、御法を広める功徳によって現世に軽く受けて消滅するのであるから喜ぶべし」という声が返ってきたと言います。その後、目をつぶられると絵で見たことのあるような弓の名手の姿が現われました。「これは誰でしょう」と天に問いかけると「汝だ」と言ったそうです。
過去に作った罪とは言え,また、軽く済ませると言っても法華経を広める者の目が見えなくなっては信者さん達が迷うであろうと心配された杉山先生は、信者さん達に「本年の五月、私は盲目となります。それは過去に人の目をつぶしたためで、妙法の功徳力によって現世に軽く受けるのです。皆さんその時に不思議に思いなさるな。常に皆さんにお話し申すように、功徳を積んでその因果を解けば、盲目もまた開けます。これからは一層徳を積むよう努力します」と申され、ますます思想善導に励まれ、かえって信者の皆さんは信心を強くされたということです。
悪の中の大悪
日蓮聖人は『盂蘭盆御書』の中で、「目連尊者が法華経を聞き、功徳を積んでお母さんを救ったということは『善の中の大善』だ」とおっしゃっておられますが、この前に「悪の中の大悪は我が身に其の苦を受くるのみならず、子と孫と末七代までもかかり候いけるなり」とあります。
善の中の大善とは目連尊者がお母さんを救ったことですが、悪の中の大悪とは何かと言いますと、平清盛のことです。御遺文の前半に「たとえば日本の国で八十一代安徳天皇の御代に、平氏の大将であった安芸守清盛という人がいた。度々の戦いで敵を滅ぼし、その功績で太政大臣にまでのぼり、臣民として最高位を極めた」とあります。そして、「そのために今上天皇は清盛の孫となり、一門の人々は高位高官に連なって日本中の六十六か国、島二つを自分達の手の中に握りしめた。人々を従えることはちょうど、大風が草木をなびかせるようであった。その結果、心がおごり高ぶり、態度も威張り散らして挙句には神仏をも軽視し、神官や諸僧をも思うままに操ろうとしたので、比叡山や奈良の七大寺の諸僧らとの間にもめ事が起こり、結局は去る治承四年十二月二十二日に七大寺のうち東大寺と興福寺を焼いてしまった。
その大重罪が清盛入道の身に降りかかり、翌年の養和元年閏二月四日に大変な高熱病にかかり、炭が焼けるように、炎が体から立ち上るような病状となり、高熱に冒されて死んでしまった。その大重罪を次男の宗盛が譲り受けたので、源氏に攻められて壇ノ浦で海中に没してしまいそうになった。いったんは海中から浮かび上がったものの捕えられ、右大臣である頼朝の御前へ縄をつけられたまま引き出されてあえない最期を遂げてしまった。三男の知盛は海中に没して魚のふんとなり、四男の重衡は縄で縛られたまま京都から鎌倉へ連行され、更に奈良に引き返されて七大寺に引き渡されてしまった。七大寺では十万人もの信者達が『我らが信仰する御仏の仇である』と言って一太刀ずつ切り付け、刻んでしまった。悪の中の大悪は我が身にその苦を受くるのみならず、子から孫へ七代も続いて受けることになるのである」とおっしゃってみえます。
次男、三男、四男のことは出てきますが、長男は出てきません。長男は重盛という人で、平家隆盛の立役者であり、「驕る平家は久しからず」と言われた時、一人だけ驕らなかったと言われています。また、朝廷のために尽くして、平安の都の人達にとても人望のあった人でした。良い政治を行ない、清盛が悪いことをしようとすると止めた人でした。
後白河法皇と清盛が対立した時も「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず。重盛の進退ここに谷まれり」という有名な言葉を残しています。
「清盛のためを思うと天皇のためにならず、天皇のためを思うと清盛のためにならない。本当に進退極まった」
そんな状況にありながらも、朝廷のために力を尽くした人でした。残念ながらこの人は平家滅亡の前に四十代で亡くなってしまいました。ある人は“重盛は非常に良い人で徳があったから平家滅亡の前に亡くなったのだ”と言い、逆に“平家に徳が無かったから重盛が生き長らえなかったのだろう”という人もいます。
因縁にはいろいろなことがありますが、功徳を積むことによって必ず消滅が出来て、善い因縁に変えることが出来るということは間違いのない真理だと言えるでしょう。