ふれあい
人間は、自分を取り巻く環境や、日常的に見ること・聞くこと、そして、身の周りに起こるいろいろな出来事に影響されやすいというお話をさせて頂こうと思います。
「掃除」で周りをきれいに
イエローハットの創業者・鍵山秀三郎さんは「掃除の菩薩」として有名な方ですが、このようなことを言われています。「とにかく掃除をして、日本中いや世界中をきれいにしたい。中でも、一番汚れやすいトイレの掃除に力を入れたい」と。そして現実に、日本だけにとどまらずアメリカ・ヨーロッパ・中国などにも出掛け、その運動を広げられています。
「どうしてそういうことをされるのですか?」とある人に聞かれた時、「本当は人の心を磨いてきれいにしたいのだけれども、心は取り出して磨くことはできないから、まず周囲をきれいにするのです。人の心はまわりに影響されやすいものです。まわりをきれいにすれば心も自ずときれいになると思うからです」と言われましたが、実際に掃除の素晴しさがさまざまな面で確認され、報告されています。
ある町に「荒れた中学校」がありました。その学校に初めて鍵山さんが行かれた時、校舎も校地も汚れ放題汚れていました。特にトイレがひどかったのです。そこでまず、トイレからその汚れを掃除してきれいにしたら中味まで変わり、ついには模範校になったというのです。
鍵山さんの指導のもと、先生方やPTAの親御さんたちも先頭に立って校内の掃除を行なったのです。すると生徒達も影響されて掃除をするようになり、やがて模範校に変身したのです。
また、東京・新宿の歌舞伎町は、以前は治安の大変悪い地域でした。当時の副知事さんが鍵山さんに声を掛け月に一回、大掃除を行ないました。すると歌舞伎町の犯罪が激減したそうです。
きれいな所に悪いことは起きにくいのです。
「天才」は「きれいな」ところに
高名な数学者でお茶の水女子大学の名誉教授である藤原正彦さんの著作『国家の品格』の中に、「ノーベル賞を受賞するような天才の出現する風土・環境の条件の一つに『きれいな場所』があげられる」とあります。
天才と言われている人がどういう場所で育ったかを調べるため、藤原さんは天才数学者たちの故郷を訪ね歩きました。
例えばアイルランドは、ウィリアム・ローワン・ハミルトンという数学の天才を生み出しています。そこでハミルトンの故郷に行ってみると、緑豊かなとてもきれいな所でした。
インドにはシュリニヴァーサ・ラマヌジャンという大天才数学者がいました。ラマヌジャンは夢の中で“女神ナーマギリが教えてくれる”と言って、次々に定理や公式を発見した人です。招かれたケンブリッジ大学では毎朝半ダースもの新しい定理を提出するほど優れた人でした。藤原さんによるとラマヌジャンは「我々の百倍頭が良いというタイプではありません。なぜそんなことを思いつくのか見当もつかないというタイプの天才なのです」ということです。
藤原さんがそのラマヌジャンの生国・インドに行ってみると、決してきれいな所ではありませんでした。しかし、彼の生まれ故郷クンバコナムは、壮麗な寺院の立ち並ぶ、とても美しい場所でした。その周辺からは、ラマヌジャン以外にもノーベル物理学賞を受賞したチャンドラセカール・ラマンや、天体物理学者のスブラマニアン・チャンドラセカールが出ています。ちなみに二人は、叔父と甥の関係ということです。
藤原さんは、天才が出現する風土には三つの特徴があると言われています。一つは、その土地がきれいであること。二つ目はその土地に住む人々が謙虚であること。そして最後は、精神性を尊ぶ、つまり、徳性を尊ぶ風土があることです。
美しい景色があり、心のきれいな人々がいる、そういう場所に素晴しい人物が育つということです。
良いものだけをみる
先にお話しした鍵山さんは、新聞の三面記事のような社会面の暗いニュースは読まないそうです。なぜなら、後々自分の人生に役に立つとは思えないからだそうです。逆に、心が温まるようなニュースはスクラップにして、何度も見るそうです。人間の心は情報に影響されやすいので、良いものだけを見て、悪いものは見ないようにしているというのです。
宮崎県に「みやざき中央新聞」という新聞社があります。そこの新聞は、心がホッとするような話だけを載せています。普通の新聞のような記事は載せないのです。その編集長が言われています。
「本来新聞にあるべき三つのものを捨てました。一つ目は、事件・事故などのニュースです。二つ目は、政治・経済のニュースです。三つ目は、自分達は正しいという主張です。
事件・事故などは人生に何も寄与しないから載せません。三つ目の、自分が正しいという主張は人によりいろいろ違いがあり、争いごとの火種になりやすいから載せません。政治・経済などは伝えるべきかも知れませんが、それでも『みやざき中央新聞』は、日本でただ一紙、読むとホッとする新聞であり続けたいのです」
魂への語りかけ
最後に「みやざき中央新聞」にあった、“ホッと”と言うより“ホロッとする”編集長のコラムの要約です。
昭和六十年頃のことです。勝弘君という男の子がいました。勝弘君は重度心身障害児で、福島県立須賀川養護学校に隣接した国立診療所内にある、わかくさ病棟にいました。
安藤哲夫という先生が養護学校に赴任してきて、最初にわかくさ病棟を訪れたとき、勝弘君は毛布にくるまれてベッドの上に『置かれて』いました。安藤先生は『人間とは思えなかった』と後に語っておられます。
在院八年、年齢は九歳三か月の勝弘君は重い脳性まひがあり、また両眼球形成不全症で片方の目には瞳孔がありませんでした。さらに高度の難聴で、どんな音にも反応せず、言葉を発することもできませんでした。そして歩行不能でした。勝弘君はそういった重い障害を、いくつも一身に背負って生きていました。
安藤先生は病棟の指導員から『自分から動くことはなく、親や職員にも何の反応も示さず、本能的に食べて排泄し、ただ生きているだけです』と説明を受けました。
それでも安藤先生は、勝弘君の触れば折れそうな細い手を握って自分の頬に当て、自分の手を勝弘君の頬に当て、そして覆いかぶさるようにして勝弘君の耳元に口を近づけ『勝弘君、安藤先生だよ』とあいさつしました。
『耳は全く聞こえていません』と医師から聞いていましたが、毎日十分、二十分の時間を割いて、安藤先生は勝弘君の部屋を訪れ、声をかけ続けました。
一か月、二か月、何の反応もありませんでしたが、三か月目になろうとする頃、いつものように「安藤先生だよ」と言うと、勝弘君がかすかに微笑みました。蒼白く、何の表情もなかった顔が、ほんの一瞬動いたのです。
そして、安藤先生が軽く介助すれば寝返りが打てるようになりました。赴任から二年四か月目のことです。そして六年十一か月目、勝弘君は一人でブランコに乗れるようになったのです。その一か月後、勝弘君は両手に卒業証書を持って小学部を卒業しました。
安藤先生は、何の反応もなくてもひたすら声をかけ続けたのです。おそらく勝弘君の魂に向かって。そこに仏さまの働きがあったのだと私は思います。
最近、私はこの話に感動して、くり返しいろいろな処で話させて頂いております。