堪忍の徳
二代目会長の村上先生は、昭和二十二年二月三日、九十二歳でご遷化されました。大変長生きをされ、亡くなられる直前まで、堪忍のお話(はなし)をされたそうです。御法話集によると「私は短気だったから堪忍の教えのありがたさがわかった」とおっしゃっておられますが、たしかに、気の長い人にとっては“堪忍ってなんだろう?”となるのかもしれません。私自身も、堪忍の大切さを身に染みて感じております。
終生『堪忍』を説かれた村上先生
村上先生は代々お医者さんの家系で、先生もお医者さんになられました。当初は恵まれた人生を送られていたと思いますが、ある人の金銭の保証人を引き受け、だまされて全財産をなくし、それだけでなく奥さんにも子どもさんにも去られ、自殺寸前のところまで追いつめられたそうです。そんな時に杉山先生に出会われ、三徳のお話を聞いて“この方と一緒に修行し、徳を積んでもう一度人生をやり直そう”と決意されたのだそうです。そして、杉山先生の亡くなられた後、二代目の会長になられました。
聞くところ、昔は本部で毎晩法座が開かれ、村上先生はいつも堪忍の話をされたそうです。その法座に出席されていた日達上人がこんなことを言っておられました。
「子ども心に、たまには違う話をしてほしいと思ったことがあったが、大人になって堪忍は本当に大事だということがわかる。堪忍は人間の土台を作るものだということが。しかしあの当時は、そうは思えなかった。もったいないことを考えたものだ」
村上先生の『堪忍』の遺言
村上先生がご遷化されるまでの数日間を、御開山上人が小冊子にまとめておられます。
それによると、一月二十八日頃から何となく体調が悪くなり、周囲の方が交代でお世話をすることになったようです。そして二十九日の朝、先生は“もう無上道に帰るのだから枕を北枕にしてもらいたい。多分、五日後の午後二時頃帰ります”と言われたそうです。言われる通り北枕にし、同時に各方面に「先生ご病気」の通知を出されました。
その翌日の正午頃“私は無上道に帰るのであるが、私の徳は皆ここに置いて行くから、皆さん、堪忍強く、慈悲深く、まごころ広く修行しなさい。お互いの力次第で大きな徳の人となれます”と言って、右手を握っては広げて見せられたそうです。(これは、“腹を立ててはならぬ”というお諭しです)
翌三十一日の夜十二時頃、御開山上人を手招きして“今眠っている間に私は極楽へ行って来ました。実に綺麗な所で、たくさんの仏さまのおられるところでありました。仏さまは私を取りまいて『ご苦労様、ご苦労様』と労って下さって、本当に嬉しかったです”と、さも嬉しそうな表情をされ、“後はもう私の自由にさせて下さい。枕元には二人以上いなくてもいいよ”と言われたそうです。
そして二月一日に“みなさんに私の遺言を伝えて下さい。妙法蓮華経は慈悲・至誠・堪忍、因と果の五つである。悟って実行し、三昧に入り、また実行しては、三昧に入るよう” と言われ、見舞に来られた人々に御開山上人が、そのお言葉の意味を説明されたそうです。
その日の夜八時、御開山上人の手を両手で包むように握り“それではどうぞお願いします。私の体はなくとも魂はここにいて、今迄よりも働きます。何もかもお渡しするからよろしくお願いします”と告げて後、合掌され、そのまま眠りにつかれ、翌二日は一日中すやすやと眠っておられました。
二月三日は大雪が降り、一面白銀の世界となりました。村上先生はどうも胸のあたりがお苦しいご様子でした。その頃からお顔の色が変わってゆくように見えました。一同が枕元に集まると、段々息が長くなり、午後一時四十六分、「出る息は入る息を待つことなく」遂に大往生を遂げられた、ということです。
最後の最後まで先生は『堪忍』を説かれ、人々の身の上、会の行く末を案じておられたのです。
村上先生ご自身の修養法
村上先生御法話集(一)に次のようなお話が載っています。
『私が精神修養いたしますについてありがたかったことは、諸仏善神の擁護であります。私の心の曇った時には、すぐさま身体に異状を覚えるので、それが何よりありがたいことでありました。
俗に寒気という悪寒のする時や、ご飯が不味の時は、大抵の場合は六波羅蜜の第一、布施の心遣いが足りない時でありました。物質を施さねばならぬ者に対して施しを怠った時、または他人の心を和らぐるような慰めの言葉を与えない時、我が身の幸いを喜ばなかった時、他人に法の道理を教えるに親切の心を欠いた時、またこれを惜しみたる時等には、すぐさま前に申したような身体に異状がありますので、その心持ちを改めて、曇りを取ったのでありました。
第二の持戒(至誠)の心の欠けた時は、私の考えごとや成すべく準備をしたことがいずれも失敗に終わるのです。その時に反省いたしますと、私がこの裟婆世界に生を受けたる目的を忘れていた時が多かったのであります。他の人が高き位に上がり、幸いを得たるを快しとせぬ、いわゆる嫉妬心のある時、すなわち菩薩にあるまじき心遣いの時でありました。最も受け難い人身を得、しかも値い難い妙法に会い、生をこの裟婆世界に受けたのは、他の模範となり、善人を造るべき大役があるのです。しかしながら妬みの心が起こるのは、その使命に反するものであります。今後はかかる心持ちを改めます、と誓いを立てますと、実に朗らかな気分となりました。
第三の堪忍が心に欠けている場合は、急に熱が出て顔がポカポカ温かいとか、私の申すことを他の人がよく聞き入れないようなことが起こってまいります。またけがをするとか、器物を壊す等もあります。この時は大抵堪忍の足りない場合であります』
『三徳』実践のお手本のようなお話です。また村上先生は言っておられます。
『最初が肝心です。まず一度だけ堪忍して下さい。そうすれば、次の堪忍も自然にできるようになります。こうして堪忍を重ねてゆけば、その徳は実に、また、非常に大きなものとなります』
むつかしい堪忍ですが、村上先生が言われるように、一度できれば二度目からはしやすくなるのではないかと思います。人間は習慣の生き物ですから。
村上先生の堪忍の徳
杉山先生の時代、仏教感化救済会と言っていましたが、その会の財産はすべて杉山先生の個人名義でした。そのため、杉山先生がご遷化された後、杉山家の代表を名のる人が「杉山辰子名義の財産のすべてを杉山家が相続する」と言ってきました。その時、会を思う人々が「法律によって会の安泰を図っては」と進言されましたが、村上先生は「冷たい法律によって事態を処置したならば、私の三十年に渡って修養してきた堪忍の徳もたちまち水泡に帰してしまうであろう。これは諸仏善神が私を試されているに違いない」と悟られ、相手に寛容な態度を示し、会の人々にもそのように話されて難局を乗り越えられました。
この後、組織は法人化され財団法人大乗報恩会となりますが、村上先生の堪忍のお徳が働いたのだと思います。認可が下りる前から各地の支部がどんどん増え、会員数は杉山先生ご遷化の頃の十倍にもなったそうです。
堪忍は本当に大切です。ならぬ堪忍するが堪忍です。
“憂きつらき心にそわぬことをみな
善きに悟りてよろこびを得よ”
(村上先生御詠)